8月下旬。
夏休みが終わる頃に、心配していたことが現実になった。

11月のグランドファイナル本番まで、
二か月しか残っていないというのに
穂乃香は自分の音を完全に見失っていた。

五月の地区大会本選で奏でた、
穂乃香の演奏でホールいっぱいに広がった音色は
秋の大会が楽しくなるような演奏だった。

だけどそんなピアノを心から愛し、慈しみながら演奏していた
彼女の優しい音色は今は存在しない。

一つ一つ、指の先まで神経を張り巡らせて丁寧に
音を楽しんでいた穂乃香本来の音色は今はどこにもなかった。


穂乃香のことは、小さな時からずっと知ってた。

音楽一家に生まれた俺にとって、
穂乃香は三歳年上のお姉さんだった。

母と一緒に良く演奏することがある、
紫音先生のお嬢さんである穂乃香は、
ある意味では、兄弟的な交流で、家族ぐるみで……、
そして幼い俺の憧れの存在でもあった。

今も俺と穂乃香の距離は変わってないだろう。

だけど、穂乃香は暫く合わない間に、
檜野瞳矢と言う俺や真人の同級生の彼氏を作った。

三歳年上だって言うので、
少し躊躇していた俺がバカみたいだ。


そしてそんな檜野がALSの発症。

正直、言葉を失った。


そしてその檜野は、穂乃香だけじゃなくて、
俺から従兄弟の真人のことも奪っていく。


そんな錯覚にすら陥ってしまう。



真人と一緒に暮らそうと、日本に転校してきたのに、
真人は檜野の家で暮らすことになる。

やむなく、穂乃香の家に転がり込むことになったけど、
檜野との関係で思い悩む、穂乃香の姿は正直見ていられない。

余計なおせっかいだと感じながらも、
穂乃香を檜野家へ連れて行ったり、
わざと檜野を煽るような言葉をぶつけたりする。

だけど、その中に組み込まれた俺の意は届かない。


そして、アイツは家を飛び出した。

それ以来、紫音先生の知人の家にとまっていて、
ここには帰ってこないと連絡があった。


穂乃香にかかわる時間がないと少し時間に余裕ができる俺は、
檜野の家や、飛鳥の元へと顔を出すことが多くなった。



今日も飛鳥と放課後、待ち合わせをしていて、スタジオをおさえていた。


悧羅の燕尾服のまま、飛鳥の待つ駅へと向かうと、
俺の姿を見つけた飛鳥は手を挙げた。


「羽村、呼び出してすまん」

「構わないよ。
学校では、真人はどう?」

「いやっ、多久馬はあんまり変わんねぇかな」

「そう」

真人があまり変わらない。

そう思うのは、
真人との時間があまり長くないからゆえなのかもしれない。

俺が感じる真人は、危うくて仕方がない。


「さて、飛鳥。ほんとに、大会ライバルの俺が相手でいいの?」

「なんでも言わせるなって。
今、オレには指示してる先生なんて存在しないんだ。
そんな中で、レッスン見てくれるって言う奇特な奴がいるんだったら、
誰だって頼むよ。
それが羽村、お前だったら尚更」


そういって飛鳥は俺をスタジオへと招き入れた。


「今日は、二時間しか借りれてないんだ。
ビシビシ頼むぜ」


そう言う飛鳥に、俺は少しサプライズを用意していた。


檜野の病気を知って、
アイツもグランドファィナル出場をすごく迷ってた時期があった。

でもそれを乗り越えて、
まっすぐに動き出した飛鳥。

そんな飛鳥の力に少しでもなりたくて。


「飛鳥、なら15分で少しいつものウォームアップしようか」

そう言うと、ショパンの子犬のワルツから幻想即興曲を
即時にアレンジを加えながらメドレー形式で演奏していく。  


「ったく、お前たちの練習を最初に体験したときはびっくりしたよ。
でも同時に楽しさも知った」

「そりゃ、どうも。
でもそこの楽しさを最初、俺教えてくれたのは真人の母親。
神楽おばさんなんだよ。
あの頃のおばさんは、異端児だって言われてて、認めてくれる人はいなかったけど、
俺にとっては心から音楽の楽しさを教えてくれた人なんだ。

あの頃の俺なんて、音楽は苦しいだけだったからな。
さて、無駄時間は終わり。

 時間がないんだから、通しで演奏いくぞ」


そう言うと、もう一台のピアノの方に俺は向かう。

そして、飛鳥が演奏する課題曲の
オーケストラパートをピアノでなぞり始めた。  

俺のオケ演奏に重ねるように、飛鳥は力強くピアノの音色を重ねてくる。

オーケストラの壮大な和音を受けて、独奏ピアノの華麗なパッセージ。

皇帝とベードヴェンの死後゛、名付けられたこの曲が作られていたのは
ナポレオンがウィーンに進軍してきたこととされていて、
その背景からか、軍隊のテイストを感じることが出来る。

約20分超の演奏をともに終えると、
俺はタブレットを取り出して、母親へと回線を繋げる。


「咲夜、飛鳥君だったわね。こんにちは、でいいのかしら?」

「あっ、冴香さま……。えっ?」

突然の母の登場に、飛鳥はびっくりして俺とタブレットを交互に見つめる。


「飛鳥、レッスン終わったら、明日にでもタブレット、真人に渡しといて。
俺も今から用事あるからさ、後半一時間、母さんに頼んだんだ。
まっ、頑張ってよ。

じゃっ、母さん、後は宜しく」

そうタブレットの方に向いて言葉をかけると、
スタジオを後にした。


飛鳥のことは、母さんにお願いした。
俺よりももっと的確に、演奏のアドバイスをするだろう。

飛鳥とのスタジオを後にして、
まっすぐに向かうのは檜野の自宅。

スマホから真人へと連絡をする。


「瞳矢、今から、咲夜が来るって」

そういって、今も隣にいるらしい檜野に言葉をかける。

「気を付けてくるんだよ」

そんな言葉に、俺は檜野家行の電車に乗り込んで、
その後、バスで目的の場所まで向かう。


バスの停留所から檜野の家に歩いている途中、
檜野の母親が運転する車が俺の隣で停車した。

「咲夜君、おばさんの車に乗ってて」

その厚意に甘えて、助手席に乗せてもらうと
車はゆっくりと家の駐車場へと止められる。


車のエンジンの音が止まったと同時に、
家のドアが開けられる。



「お帰りなさい、母さん」

「お帰りなさい、おばさん。
そしていらっしゃい、咲夜」

「お邪魔しまーす」


真人と檜野の出迎えに、通いなれた家の中へとお邪魔する。

今日も檜野のプレイエルピアノは、
演奏されていたのか、ピアノの蓋が開けられていた。


「演奏してたのか?」

「うん。
瞳矢と、雨だれをね。
この後、英雄ポロネーゼでもやろうかって」

「なら、その相手は、俺がやってもいいか?」


当然のように真人が一緒に演奏しようとしていたのを、
俺が檜野の相方へと名乗り出る。

遠慮するように真人が譲ったのを確認して、
俺はプレイエルの前に座った。


「なら、始めようか。檜野」

そう言うと、檜野が奏でようとするパートを挑発するように園区層を始める。

左手だけだけど、
檜野の演奏はとても繊細な演奏だと言うことが感じてとれる。

目を閉じると、檜野の演奏だけでも、両手で演奏しているように聞こえるには十分だが、
そこに深みを増すために、俺も両手で音を重ねていく。

キラキラと輝くような音を響かせながら、
楽しそうに左手は忙しなく鍵盤の上を踊り歩く。

そして約7分前後の演奏を終えた。

演奏が終わった檜野は、凄く嬉しそうに笑ってた。


「檜野、左手だけで凄く幅が出るようになったな。
努力のたまものだと思う。
さっきのこのフレーズだけどさ、檜野はこうやって演奏してたけど、
内側じゃなくて、出来る限り外側をたどって、この音とこの指運びで行く方が
安定するかもしれない。
また気が向いたらやってみな」


っと気が付いた部分を檜野に告げると、
素直な檜野は、
指先を動かしながら空でメロディーを自分の中でかき鳴らしているみたいだった。

「有難う。
ボクもとても楽しかったよ」

「なら、真人、今度はまた二人で演奏したいな。
今日はどうしようか?」

「僕たちもショパンにする?
それとも……」


真人は自覚してるのか、していないのかわからないが
今の真人に正直、ショパンを弾かせたくない。

檜野の愛したショパンの曲は、
どれも素敵な曲だと思うけど今の真人がショパンを弾くと、
檜野を意識しすぎて、真人本来の音色にならない。

無理に檜野の演奏に寄せようと意識してる。


「真人のリストが聞きたいな。
ラ・カンパネラでもやろうか」

挑戦的に告げると、真人は頷いてピアノの前へと座った。

共に奏でる演奏むなのに、
リストまでもが、何処か檜野のタッチ感が感じられる演奏で
真人本来の持ち足が乏しくなっているみたいだった。


檜野の音色は檜野しか出せないって、
どうして気が付かない?

真人には真人本来の持ち味があるだろ。
どうして、穂乃香といい、真人といい檜野の周囲で、予想外に壊れるんだよ。

ピアノが好きなんだろ。
だったらそれだけでいいだろうに。

檜野たちと2時間くらいピアノを楽しんだ後、
俺は檜野の家を後にして、タクシーを捕まえて伊集院邸へと帰宅した。


今日も、穂乃香の姿はない。

ただっぴろい部屋が広がったとたんに、
虚しさともやもや感がこう交差幕して交錯する。

自室の部屋へと引き籠ると、
もてあます感情を発散させるように、グランドファィナルの課題曲を
ガンガンにピアノへと思いをぶつけた。



音失ったピアニスト、二人。
どうしようもなく、俺は二人を上から見つめているような錯覚には陥っていた。