8月上旬。
中等部のころからずっと頑張ってきたテニス部を引退。

その日、私はテニス部主将の任から解放された。

皆は大学受験に向けて行動を開始していくけれど、
私には逃げ続けていたけど、
向き合わないといけない問題があった。

11月3日のピアノコンクールグランドファイナル。

部活を引退した直後から、
毎日、相棒のピアノの前で鍵盤に指を走らせ続ける。

練習しているのは、ショパン。

だけど私の演奏には、心がない。
自分がない。

演奏している自分が、楽しさではなくて、
苦しさを感じてしまっている現実。


自分だってコンクール前で忙しいはずなのに、
咲夜は毎日、私がピアノを練習し始めると時間を作って付き添ってくれる。

それが申し訳ない気持ちと私を追い詰めていく。


「穂乃香、そこはもう少し。
一音一音を大切にしないと滑ってる」


私のミスに気が付くと、すかさず指摘してくる咲夜。


「穂乃香の心はどこ?
そんな演奏じゃ、グランドファイナルに来た観客は納得しないよ。
地区大会で敗退してしまった参加者に、申し訳ないと思わないの?」  


容赦なく、飛び交う咲夜の言葉はどれも正論で、
私が鍵盤に指を走らせながら、
何度も何度も同じ場所を運指の確認を兼ねて繰り返す。


「穂乃香、まだそこが滑ってる。
少し貸して」

そういうと、私のピアノを操るように鍵盤に指を走らせる咲夜。



……なんだ……。
全然、違って聞こえる。

同じ曲を演奏してるはずなのに。


「穂乃香、俺さ、正直、飛鳥にしても穂乃香にしても理解できなかったよ。
皆、グランドファィナルに出場したくて、
地区大会の予選審査から必死に練習してきただろ。

そんな中で檜野が難しい病気発症してさ、地区大会本選で指を動かせなくて
グランドファイナルに出場できなかった。

だけどさ、それで自分の夢を諦めようとするか?
檜野に遠慮してる、二人を見ると、音楽舐めてんのか?って思わずにはいられなかったよ。

飛鳥は、どんどんうまくなってるよ。
俺の今期のライバルは、穂乃香じゃなくて、飛鳥だと思うくらいに……。

……後は、穂乃香は檜野を避けてるから、アイツの所に顔を出そうとしないけど、
アイツは今もピアノを楽しんでるよ。

残された左手で。
一緒に演奏すると、アイツが心から楽しんで、ピアノが好きでたまらない気持ちが
音からあふれ出してる。

確かに将来有望だったアイツが、あんな病気になって、いつかは今、奏でてる左手も
動かなくなる日が来るってのは残念だよ。

だけど、穂乃香やあのバカは違うだろ」

私の演奏予定の、ピアノ協奏曲 第一番 ホ短調作品11を演奏していた咲夜は、
突然、演奏を中断して、鍵盤をバンっと叩くように不協和音を奏でて立ち上がった。


そして私の部屋から出て、自分の部屋に引きこもると、
中からラフマニノフの「鐘」が聴こえてくる。


そんな咲夜の音色を聞くのが辛くなって、
私は静かに財布とスマホだけ手にして自宅を飛び出した。      


初めて逃げるように飛び出した夜の街。

光るネオンも、賑わう雑踏も、
私の中には殆ど入ってこなくて、
ただ暗闇が広がっている感じがした。


どこに行こうとしてるんだろう?
どうしたいんだろう?


目的もわからないままに
彷徨う私の耳を刺激した突然のクラクション。


それと同時に誰かが私の体を引き寄せた。


「危なかったですね。

赤信号だったのに飛び出そうとするなんて、
何かあったら、紫音さまに父が顔向け出来ませんよ」

そういって溜息をつく青年。

「えっ?」

パパのことを紫音さまと呼ぶのは悧羅の関係者。
この人もそういえば
悧羅の生徒総会のメンバーがよくやってる髪型……。

「一綺、穂乃香さんを引き留めてくれて助かったよ」

そういうと聞きなれた姿が私の傍に近づいてきた。

「綾音のおじさま……」

えっ?
そしたらこの人が、おじさまの一人息子の一綺さん?

「穂乃香ちゃん、一綺が気が付いて、慌てて駆けつけてくれて
とっさに体を引き寄せてくれたんだよ。
体は何ともないかい?」

「お父さん、大丈夫ですよ。
穂乃香嬢に指先の一つもケガなんてさせてません。

ほら、立ち話も他の方の迷惑になりますよ。
私が車をまわしてきます。    
お父さんは、穂乃香嬢とショッピングモールのロータリーに移動して待っててください」

そう言うと一綺さんは、何処かへ移動していった。

「さっ、穂乃香ちゃん、話は後。
車へと移動しようか」

そう言うと、綾音のおじさまは、
私をエスコートするように待ち合わせのロータリーへと歩みを進めた。

ロータリーに到着した時間と同じくらいのタイミングで、
一綺さんが運転するベンツがゆっくりと目の前にとまる。

おじさまが後部座席のドアを開くと、
私はゆっくりと乗り込む。

私に続いておじさまもゆっくりと車内に乗り込むと、
車はゆっくりと動き出した。

「妻との待ち合わせがあるんだ。
穂乃香ちゃん、付き合ってもらえるかな?」

おじさまはそう言うと、
一綺さんはその待ち合わせの場所へと車を向かわせた。  

「穂乃香ちゃん、今、何時かわかってるかな?」

「……」

家を飛び出して、彷徨ってはいたけど時間間隔なんて麻痺してしまっていて
正直、よくわからない。


「紫音から聞いてるけど、今、羽村さんのご子息が下宿してるんだよね。
羽村さんのご子息となんかあったのかな?」

「……」

「なら……、ALSを発症してしまった彼氏と何かあった?」


パパと親しいだけあって、綾音のおじさまは詳しい。


でも……、どう言葉にしていいのか見つからなくて、
私は何も言えないでいた。


「何も話してくれないのは困ったなー。
でも一つだけ言えるのは、今の穂乃香ちゃんを、おじさんは一人に出来ないし、
家にも帰らせたくないっと事だけは確かかな」

そう言うと、おじさまはスマホを取り出して何処かへと電話を始めた。

ただ電話の向こうは留守番電話。

「やっぱり、いきなりは捕まらないよね。
まっ、連絡だけ一本入れておけば大丈夫でしょ」

そう言うと、おじさまは長い指先でスマホの文字打ちを早々にこなし、
パパへと連絡を終えたみたいだった。


「ただいま」

ふいにそんな声が聞こえて、
昔から変わらない、勇ましい女性が車へと合流する。

「お帰りなさい。姫龍さん。
今日から暫く、穂乃香ちゃんが我が家のゲストだ」

おじさまは、そう言うと、
おばさまは優しい声で「ようこそ」っと私を迎え入れてくれた。


車は綾音邸へと到着して私はゲストルームへと案内された。


暫くして、おばさまが姿を見せると、
着替え一式、スキンケア用品一式をテーブルの上へと置いてくれる。


「私がプロデュースしているブランドのものだが使ってほしい。
着替え終わったら、ダイニングへ。
夜食にしましょう」

そう言うとおばさまは、ゲストルームの扉をゆっくりとしめた。

言われるままに服を着替えると、
ゆっくりとダイニングルームの方へと向かった。


そこには着替え終わった綾音家の三人がテーブルを囲んでいた。

そしておじさまは、
パパと電話をしているみたいだった。 


「穂乃香ちゃん。紫音と連絡がついたよ。
お父さんが呼んでる」

そういって私を手招きする。

「穂乃香、暫く、綾音のお家でお世話になりなさい。
そして瞳矢君とのこと、グランドファィナルのこと、
ゆっくりと後悔のないように考えなさい。
咲夜には私から連絡をしておくよ」

近づいておじさまのスマホを受け取ると、
パパの優しい声が聞こえた。   
    

「……うん……。有難う。パパ」


そう言うと、パパは電話の向こうで呼ばれているみたいで
「行くよ」っと声が聞こえて通話が切れた。



「さて、穂乃香ちゃん。
暫くの間、ここが穂乃香ちゃんの家だよ。
紫音、公認だ。
穂乃香ちゃんが話したくなった時に、私でも姫龍さんでも、
一綺にでもいい。話が聞いてもらいたくなったら話しなさい」

そういって、綾音のおじさまたちは私を迎え入れてくれた。

おばさまと、一綺さんが作った夜食を頂くと、
お腹がすいていたことに気が付いた。

明日にあまり響かないように軽めの夜食を頂いた後、
私は、おじさまとおばさまが会話を楽しむ傍にお邪魔させて貰っていた。

一綺さんと言えば、夜食の後は何処かへ移動してしまったけど、
暫くしてピアノの演奏が聞こえてきた。


パパの音色とも、咲夜の音色とも、私の音色とも違う。


「ピアノ、弾きたいかい?
ピアノは、今は一綺の応接室にしかないんだ。
気になるなら行ってみるといいよ」

「今日は、疲れたので休ませて頂きます」


そういって断りを入れてから私はゲストルームへと引き籠った。



ピアノの音色を聞くのが苦しくて私は家を飛び出した後なのに、
この家のピアノの音色に惹かれている私がいる。



ねぇ、私はこれからどうしたいの?
ただ私自身の答えが知りたくて……。