9月。

二学期が始まる頃になると、
ボクの右手は脱力が酷くなり始めた。

朝起きたボクの右手は、グーのまま爪が付いこむような強さで
握りしめたまま硬直して動かない。

そんな右手を目覚めとともに、左手で一本ずつほぐしながら開いていく。

飲み薬も点滴もしてるのに、
少しずつ出来ないこと、気になることが増えていく右手。

やっばり、完治させるための薬ではないのだと思い知らされる。

一進一退を遂げる、右手の握力。

病院や自宅で、
右手のリハビリメニューを頑張ってはいる。

決して回復はしないけれど、
そのリハビリを続けていないと将来の進行が速くなる可能性があるから。

いざ、完治する薬が開発されても、
筋が弱ってしまっては何も始まらないから。

そんな望みを繋ぐように続けるリハビリ。


右足は時折、違和感を感じるようになってきた。

だけど幸いにして、ボクの左手はまだ元気だった。

今のボクの願い。

それは左手のピアニストとして大好きなプレイエルと戯れることだった。

そんな可能性をボクに教えてくれたのは天李先生だった。


天李先生が教えてくれたその人は、
ALSではなかったけれど、脳梗塞で右手が使えなくなったピアニストだった。


天李先生が見せてくれた、その一本の動画はボクの希望を繋いでくれた。


右手が使えなくなったのは悲しいし残念だけど、
今のボクにはまだ左手がある。


入院生活をしているときや、点滴中のボクは、
スマホで「左手のピアニスト」の情報を検索してはその人の演奏を参考に
自分の中でイメージを膨らませていく。


病院にいる間は、紙の鍵盤でイメージを重ね、
自宅に帰ってきたら、プレイエルの前で演奏を続ける。


昔、幼いころからずっと習って演奏してきた教本の数々。

その楽譜を引っ張り出しては、
左手だけで演奏をしていく。

両手用の楽譜から瞬時に必要な音を抜き出して、
左手での和音を生み出して、両手で演奏しているように自然な形で仕上げていく。


何度も失敗しては、繰り返しながら、試しながら、
ボクの左手が動きやすい音を探っていくそんな時間が、
ボクを落ち着かせてくれた。


左手での本格的な演奏を練習しながらも、
時折、動きにくい右手にも鍵盤に触れさせてあげる。

右手はもう第二関節かで指をまげて押すことしか出来なくなったけど、
それでも、プレイエルに触れさせてあげられる。

そんな時間がボクには凄く愛しい時間だった。

「瞳矢、おはよう。
準備できた?」

部屋の外から真人の声が聞こえた。

「おはよう。
朝からまたプレイエル触ってた。

あっ、もうこんな時間だったんだ」

っと時計の針が、7時を指そうとしているので慌てて
部屋を飛び出そうとして一歩を踏み出したつもりが、
躓くように足がもつれてその場で倒れこんだ。

バタンと倒れたその音が聞こえると同時くらいに真人は中に入ってきて、
床に倒れたボクを支えながら抱え起こした。


「瞳矢」

「大丈夫。ちょっと躓いただけだから」

そういって、制服を取りに行こうとするボクに「制服だね」っと声をかけて
真人はクローゼットへと移動してハンガーにかかっている制服をボクの元へと運んできた。

「ありがとう」

そういった時には、もう真人の手によって、ハンガーから制服は外されていて、
すぐに着用しやすいようにシャツから手渡す準備をしてくれてる。

そんな気遣いが嬉しいと思う時と、やりすぎだと感じる時とあるのは内緒。

そんな些細な行動が、ボクを悲しくさせていることには真人は気が付かない。

右手が思うように言うことを聞かなくなってきたボクのシャツのボタンを留めるのに時間がかかる。
それも少し様子を見ていた真人が、すぐに手を貸してくれて着用時間は一気に短縮される。

制服に着替え終わったボクは、ボクの荷物もすでに持った真人と共にダイニングへと移動する。 

母さんが作った朝食を食べ終えた後は、
いつものように駅まで歩いて、電車に乗って学校へと向かった。

そんな時間も、真人は何があってもボクのフォローが出来るように構えるように傍にいる。


「おはよう、瞳矢・真人」

学校の最寄り駅。

ボクたちの姿を見かけた浩樹が声をかけてくる。

「おはよう。浩樹、グランドファィナル、調子はどう?」

「あぁ、なんかまだまだ練習が足りないなー」

「浩樹だったら大丈夫だよ。
演奏曲決まったの?」

「あぁ、ベートーヴェンで行こうと思ってる」

「だと思った。
 後で音楽室のピアノで聞かせてよ」

「あぁ。率直に、瞳矢の意見も聞きたいからな。
真人、お前も本音を聞かせてくれよ。

羽村に聴いたよ。お前もかなり弾いてたらしいからな」

そういいながら、浩樹は楽しそうに話し始める。

ボクが知らない間に、
咲夜君はいろんなところをサポートしてくれてるのかも知れない。

1日の学校の授業が終わって、
放課後の音楽室のピアノを借りてボクは浩樹の演奏を聴く。

浩樹がグランドファィナル用に選曲していたのは、
『皇帝』と言う別名がついている、ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73だった。

浩樹の演奏は堂々しているけれど、
今はまだピアノだけで、
その背後にオーケストラの音色があることを感じさせてくれない。

演奏を聴きながら、
ボクの左手はオーケーストらの辿る譜面パートを追いかける。

時折ミスタッチを重ねながら、演奏を弾きこなした浩樹は、
まだ自身の演奏に満足していなさそうだった。


「浩樹、今はピアノしかないから仕方がないのかも知れないけど、
今の浩樹の演奏の背後に、オーケストラの音色が感じられないよ。
凄く力強くて浩樹らしい演奏だけど、
今はピアノしかなくても、一緒に奏でているように感じさせて」

感じるままにボクが告げると「やっぱりな」っと浩樹は頷いた。


浩樹、例えばさ。ここ。

そういってピアノの傍に行くと、
左手だけでオーケストラパートの一部の譜面を拾い上げる。


「この場所も、ピアノ協奏曲だから、
オーケストラがピアニストに合わせるのがいいのもか知れないけど、
時にはピアニストがオーケストラに寄り添う、
合わせるタイミングがあってもいいと思うんだ」
  
「あぁ、そうだな。
今度市販のオーケストラのCD流しながら合わせてみるか……」


浩樹はそう言うと、ボクの方を見た。


「瞳矢の左手も凄いな。
どうやったら、あんなにオケ譜を抜き出して左手だけで弾けるんだよ。
このまま言ったら、ショパンの革命とかも弾けてしまいそうだな」

そういって浩樹は笑ってた。

「そうだね。
今はまだ基礎段階だけど、もう少し左手が慣れてきたら、
練習してみたいって思ってるよ。革命も、別れの曲も」

「おぉ、楽しみにしてるよ。
俺はお前のピアノの透き通った音色が好きだからな」

「ありがとう。ボクも今、自分が出来ることを続けるよ」


放課後の音楽室を後にいる間も、
真人はボクたちの会話を邪魔しないように時折、相槌を打ちながらついてくる。


「浩樹、穂乃香とあった?」

「いやっ、アイツ、大会の後からつい最近まで、部活で忙しかったんだろ。
羽村がグランドファイナルの練習をしないで部活ばかりしてるって愚痴ってたな」

「そうなんだ……。


穂乃香は、あの日、咲夜君と来た日を最後に
ボクの前から姿を消した。



今は忙しいだけなんだ……。


そう自分に言い聞かせながら、
彼女のことを考える。





浩樹が演奏するピアノを聞きながら、
ボクがあのグランドファイナルに出場出来ていたら、
どんな演奏をしたんだろう~なんて、
想像してしまうボクが存在した。