GW明けの退院から
僕は檜野家へと迎えられた。

檜野の家は失ってしまった
僕の優しいぬくもりを取り戻してくれる。

単身赴任で家を留守にしがちなおじさん。

家の大黒柱のように、
家の事と外での仕事に慌ただしいおばさん。

父の病院で研修中の冬兄さん。

そして今は冬兄さんの奥さんになってることに驚いた
瞳矢の料理上手な和羽姉さん。

和羽姉さんも、瞳矢と同じように
母にピアノを習っていたことがある存在。

そんな瞳矢の家族に囲まれて、
瞳矢と過ごす日々。

瞳矢が発症した、ALSと言う病気については、
入院中に父から手渡された資料で何となく把握した。

瞳矢が発症してしまったALSは、
今は完治させるための治療方法がないということ。

そして今できる進行を遅らせるための治療法と、
リハビリ。

後はどんなふうに進行していくかは人それぞれだけど、
何時かは両手も両足もし動かなくなる日が来て、
車椅子の生活になり、ベットから動けなくなり、
最後には呼吸も出来なくなる。

そんな瞳矢を助けたくて、
少しでも傍にいる道を選んだ。

恩返しって言ったら言い過ぎかもしれないけど、
見渡せば瞳矢が僕自身に自分を踏みとどまらせてくれた。


咲夜が一緒に住もうと言ってくれたのも知ってるけど、
今は瞳矢の傍に少しでも居たくて。


GW明けの退院をして通学再開した頃から、
香宮学院での高校生活も華やかになった。


四月には僕の噂話をひそひそと言い続けていた
クラスメイト達も、浩樹君や瞳矢の存在で学校内にも
今は僕の居場所が感じられるようになった。

今も時折、地震を思い出して
PTSDの発作が起きてしまう時もあるけど、
今はそんな時も、傍にいて受け入れてくれける友達がいる。

瞳矢を慕う友達が、
僕もその輪の中へと一人の友人として迎え入れてくれる。

それは暗闇に居た僕の心に光を届けてくれた。



最初の指の違和感を感じて半年。

今の瞳矢は右手の違和感が強くて右手が突っ張ったり、
ピクピクと震えたりと力が入らず、思い通りに使えない。

だけどそれ以外は、
まだ瞳矢自身で行うことが出来る。


だけど時折、グーのままで開かなくなってる
右手が視界にとまる。

そんな手をゆっくりとほぐしながら
伸ばして冬兄さんに教えて貰ったマッサージをする。

そんなことしか今は出来ないけど、
それだけでも、僕にとっては大切な時間だった。

六月中旬頃になって、
瞳矢は治療のために二週間の入院生活が決まった。



「真人、いってらっしゃい」


そう言って制服姿の僕を見送る瞳矢。


「うん。
瞳矢も頑張って」


頑張ってって言う言葉が
相手に負担になることもわかるけど、
それでも、そんな言葉しか出てこなくて。


「点滴があうといいなー。
あえば少しでも長くピアノと関わっていられるだろうから」


そう言う瞳矢の言葉に思わず、
胸が苦しくなった。


「放課後、病院に顔出すよ。

病室の番号わかったら連絡して」

そう言うと僕は鞄を持って家を出た。


瞳矢が不在でも僕の周りには、
飛鳥を始めとして仲間たちが多くて寂しさを感じない。

授業中は瞳矢のノートを書き留めて、
休み時間は飛鳥たちと過ごす。


そして放課後になったら、
メールで知らせられた病室へと
飛鳥たちと一緒に顔を出した。



「瞳矢、どう?」

「とりあえず今、一回目の点滴が終わったよ。

今日のところは、
何も思わなかったけど薬があうといいなーって。

なんかたまに肝臓の数値が一気に悪化する人もいるんだって」


そう言いながら、病室のベッドの上で座ってる瞳矢が居た。


瞳矢のベッドの傍には、テーブルが置かれてあって、
そこには昔懐かしい、紙鍵盤のピアノが広げられてる。


「おっ、瞳矢。
こんなとこでも、ピアノかよ」

「うん。
二週間もピアノに触れなかったら、
左も動かなくなるよ。

今もボクには、左手に両手分頑張ってもらわないと
ピアノが楽しめないから」


そう言って笑う瞳矢。


そんな瞳矢に傍にいてかけられる言葉が見つからなくて、
僕はわざと、時計を見る仕草をした。

「どうかした?真人」

僕の仕草に反応する瞳矢の声を合図に、

「ごめん。
今日、多久馬の病院に行く日なんだ」

「あぁ、それはちゃんと行かないと。
お父さんと久しぶりに、ゆっくりしてくるんだよ。

真人には、なかなか難しい時間かもしれないけど、
ちゃんとお互いを知る努力をしないと何も始まらないから」

「うん。じゃ、飛鳥、ごめん。
先に行くよ。
瞳矢、また来るね」

瞳矢の入院する病院を逃げるように後にすると、
僕はフラフラとバスターミナルから入ってきたバスへと乗り込む。

無意識のうちに乗り込んだバスは、
多久馬総合病院の近くが終着駅のバスだった。

バスを降りて電車の駅を探す気力もなくて、
ただ委ねるように乗って、終点のコールでそのバス停でおりた。


そこから檜野家へ戻ろうと、
体を移動させたとき、一台の車が僕の隣にとまった。


「真人、どうかしたのか?」



車の後部座席から姿を見せたのは父だった。


「瞳矢が今日、入院してお見舞いに行った帰り。
バス乗り間違えて」


そう伝えた僕に、父は後部座席のドアをあけた。



「檜野の家には私が連絡を入れる。
真人、車に乗りなさい。
行きたいところがある」


父が招き入れた車内。


車の中には懐かしい音が木霊していた。


驚いた表情を浮かべていたのに気が付いたのか、
父はすぐにネタ晴らしをしてくれた。


車内に流れていたのは、
母さんが演奏したピアノの音色だった。



「神楽のピアノの音色だ。
気が付いたみたいだな」



そう切り出した父に僕は頷く。



「母さんは父さんのピアノの先生だったんだ。

母さんと出会った頃は、
まだ父さんは高校生で雪の日だった」


父が語る僕が知らない二人の時間はとても新鮮だった。

父が母さんを大切に思っていたことと、
母さんが大好きだったことが伝わってくる。


僕の知らないそんな昔話を聞きながら、
父が予約したレストランで晩御飯を食べる。


その後は、檜野の家へ送り届けられると思っていたら、
僕たちを乗せた車は別の場所へと移動した。


車は静かに停車し僕たちをおろすと走り去っていく。



「ここは真人が心臓の手術を受けたとき、
母さんが過ごしていた場所だ。

ここには父さんの実家があったんだ」


そう切り出して父は建物の中へと入っていく。


そしてエレベーターに乗り込んで最上階へと向かった。


最上階にあるドアの前で、
鍵を開けると父は部屋の中へ入るように告げた。



「父さんの隠れ家だ。
真人も好きに使いなさい」



そう言って鍵を手渡してくれた。
部屋の中には沢山の医学書が並んだ本棚。

そしてスタインウェイのグランドピアノが鎮座していた。


「母さんも使っていた父さんのピアノだ。
真人はピアノを弾くのか?」

「うん……ピアノ好きだよ。
今も瞳矢の家でピアノ触ってる」


今も自宅にあったのと同じタイプのグランドピアノに動けないでいた僕の前で、
父が手慣れた手つきで蓋を開けスタインウェイのグランドピアノをセットした。

父がグランドピアノの前の椅子に腰かけて
姿勢を正すと懐かしいバイエルのフレーズを弾いた。


「真人、母さんに教えて貰ったけど父さんは殆ど弾けなかった。

聴くのが専門だ。
よかったら父さんのリクエストを聴いてくれないか?」


父がそう言って僕に視線を向けた。


「何の曲?
僕が弾ける曲だったら」

「……リスト……。
リストの愛の夢 第三番」

 

父がリクエストしたその曲は先ほども車内で流れてた。

母さんが昔から何度も何度も演奏して聴かせてくれた曲で、
その曲を母さんに聴かせてあげたくて、
演奏できるようになりたくてピアノを一生懸命練習した。


だから弾けないわけじゃない。



「愛の夢……母さんもずって弾いてた。
久しぶりだからミスタッチしたらごめんね」


そう言うと僕は父が立った後の椅子にゆっくりと腰かけると、
白と黒の鍵盤の上にそっと手を乗せた。



切なくも美しいメロディー。


この曲を演奏する時に調べたとき、
この曲の誕生の裏側には、
リストが愛した二人の女性の存在があるって書いてあった。

それを見ながら、その時はふーんって感じだったけど、
母さんは僕を不倫して生んで育ててきたってことなんだよな。


そう思ったら、何とも言えなくなった。


そんな僕自身の心の揺らぎでミスタッチが続き、
演奏する手を止めたとき、
ふと父に視線を向ける。



父は立ち尽くしたまま、
静かに涙を流し続けていた。





そんな父の姿を見たのは初めてだった。



その日、初めて同じ部屋で父と一緒に過ごした。

父は僕が知らない母さんとの思い出を少しずつ話してくれた。


愛されて生まれたことを知ることが出来た。


あの日……夢の中で母さんが
教えてくれたことを補完することが出来た。



翌朝、目が覚めたときには
机の上に父からの置手紙があった。






真人へ


昨日は素敵なピアノを有難う。

病院から呼び出しがあったから行きます。
何時でも使いなさい。

ピアノが弾きたくなったら自由に使いなさい。
母さんも心の支えにしてたピアノだ。


瞳矢君の傍にいても、
真人の心を守ってあげなさい。






父の置手紙にはそう書かれてあった。
少しだけ父のことが受け入れられた。


その日、父の隠れ家から学校へ通学して
瞳矢の病院に顔を出した帰り道、咲夜から電話がかかってきた。


『今日の夜、俺の下宿先に顔出せないかな?』


その連絡のままに檜野の家に一本電話だけ入れて
咲夜の住む伊集院邸へとお邪魔した。



「咲夜、今日は有難う」

「真人、今日は都合つけてくれて有難う。

少し話がしたくてさ。
ほら檜野の家だとやりづらい話もあるからさ」


そう言って咲夜は
僕を下宿先の自分の部屋へと案内してくれた。


「あぁ、スタインウェイ」


漆黒のピアノに向けた僕は、
思わず自宅や昨日の父のピアノを思い出しながら視線を向けた。


「今、伊集院邸で借りているピアノなんだけどな。
使っていいよ。

それより久しぶりに、真人のピアノを聴きたいな」

「僕のピアノが聴きたいって言われても、
咲夜にはかなわないよ。

母さんがなくなってから暫くピアノに触れなかったから、
その間に指も思い通りに動かせないし。

久しぶりに瞳矢のプレイエルを触れた時は
嬉しかったけど指の動かなさに参っちゃったよ。

まぁ、感情のはけ口にピアノに触れてた部分もあるから」


咲夜にはそんなこと言いながらも、
ピアノが触りたくてウズウズしている僕は、
ショパンの英雄ポロネーズの楽譜を脳内に思い出しながら演奏する。


ピアノが僕を支えてくれる。

久しぶりすぎて、間違えることも多かったけど、
間違えたところは何度も練習したらいい。

昔もそうやってたんだから。


何度も何度も、時間を忘れて
ピアノの鍵盤に夢中になった。


「真人、もうすぐ九時になるから
 ピアノ使わせてもらっていいかな」


そんな咲夜の言葉に、
僕は慌ててピアノから立ち上がった。


「あっ、咲夜。ごめん。
 懐かしくてつい、触っちゃった。

 もう九時なんだね」


帰らなきゃ。


「あっ、真人もピアノの傍にいろよ。
今から俺のウィーンの先生と先輩たちを紹介するからさ
檜野の家には今日、俺の家に泊まるって連絡入れたらいいだろ」

そういうと咲夜は電話を僕に手渡す。
その電話を受け取って、僕は檜野の家へと電話番号をかけた。
暫くして電話口で冬兄さんの声が聞こえた。

「もしもし」
「真人です。遅くなってしまって申し訳ありません」
「大丈夫だよ。今から迎えに行こうか?」
「えっと、今から咲夜のウィーンの先生とのピアノレッスンがあって、
今日は泊まってそれを見学していかないかって誘われてて……」
「そう……。それは貴重な経験がさせて貰えそうだね。
今日は咲夜君と楽しんでおいで。こっちは気にしなくていいから」
「有難うございます」
 
そういって電話を切った僕は、
咲夜が待つピアノの傍へと近づく。

「許可貰えたか?」

「うん。
久しぶりにいとこ同士の時間楽しんでおいでって。冬兄さんが」

「そっか。
なら、レッスン開始だ」 

レッスンを始めた。


見学を進める咲夜のピアノレッスンは、
かなり内容が濃いいものだった。

一緒に演奏しているメンバーが凄すぎる。

DTVTオーケストラに所属している、
惣領国臣さんと、その恩師が同じ空間にいる。



緊張だらけのレッスン。


それに答えるように
次から次へとこなしていく咲夜。



そんな咲夜たちのレッスンを見ているだけで、
ウズウズして、膝の上で指が動いてしまう。



「君、名前は?」


ふと電話の向こうで惣領さんが僕の名前を呼んだ。


「多久馬真人です」

「じゃあ、真人、君も一緒に演奏しよう。

とりあえず連弾で。
真人は幻想即興曲演奏できる?」

「少しくらいなら」

「OK。咲夜、準備はいい?
この間もしたけどジャズアレンジでいくよ」

 
ジャズのリズムが難しくて、
すぐに即興でアレンジすることについていけなかったけど、
それを補う様に咲夜はカバーしてくれる。


少しずつ、聴いたフレーズを記憶して
それを何度か即興で取り入れて演奏しながら
ジャズのリズムに乗せていく。


難しいけど楽しすぎる時間が過ぎた。


気が付いた時には23時になろうとしていた。

その後も何度も何度も同じように曲を楽しんで、
その日は咲夜と一緒に就寝した。


朝ご飯を食べて、その後も夕方までお邪魔した後、
瞳矢の病院へお見舞いに行く時間が来たことを確認して
ゆっくりと伊集院邸を後にした。


病院へ行く道中、
僕の隣で停車した車は冬兄さん。


「真人君、瞳矢のお見舞いかな?
一緒に行こうか。

昨日は伊集院邸で楽しかった?

咲夜君が院長のところに挨拶に来て、
院長が檜野の家にも電話をくれていたんだ。

またこうやって真人君が行きたいときに、
咲夜君のところに遊びにいっていいんだよ。

遅くなっても僕が迎えに来れる時は来るし、
多久馬院長に頼んだっていい。

弟の……瞳矢の事だけじゃなく、
広い視野で真人君の人生を楽しんでほしいから」


車の助手席に乗り込んでシートベルトをした僕に、
冬兄さんは嬉しそうなトーンでいった。



「真人君、今日はいい顔してる。
良かった。

最近、心配してたんだ。
でも今日は良い顔をしてる。

院長も今日は凄く嬉しそうだったよ」



そんな風に言われたことが今は嬉しくて……。



少しずつ心の隙間が埋められていくのが
自分自身で感じ取れた瞬間だった。