五月。

H市にて自殺未遂を起こしてしまった真人君は、
院長の病院へと転移をして、
病院内で念のため、精密検査を余儀なくされた。


GWが過ぎたある日、
僕は院長室へと呼び出された。



「失礼します。
院長、冬生です」


「あぁ、入ってくれ」


院長室にお辞儀をして入ると、
そこには着替えを済ませて退院した
真人君の姿があった。


「真人君……」

「冬兄さん……」


視線を合わせて
お互いの名前を紡ぐ僕たち。


「冬生、改めて檜野家には挨拶にお邪魔するが、
 真人を頼む」


そう言って院長は僕に深く頭を下げた。


「院長、そんなに改まらないでください。
 言い出したのは僕なんですよ。

 それに真人君は僕にとって弟みたいな感じですし、
 瞳矢も楽しみにしてるんですよ」


「冬生、今月の真人の生活費だ。
 檜野のご両親へ渡してくれ。

 何か足りないものがあれば、
 何時でも連絡してくれ」


そう言って院長は、
真人君の前に僕に生活費を手渡した。


わざと真人君の目の前で僕に手渡したのは、
真人君の父親でありたいと思う親心と、
檜野の家で真人君の肩身が狭くならないようにとの
配慮だったのかも知れない。


「真人、何かあればすぐに連絡しろ。
行ってらっしゃい」


そう告げると院長は部屋を出て行った。


「真人君、行こうか」


そう言うと僕は彼の荷物を持ち上げて、
院長室を一緒に出た。


車へと移動する最中、
大夢さんが俺たちを見つけて手を上げる。



「おっ、退院だな」


そう言って声をかける大夢さん。


「大夢さんは僕の指導医なんだ。
瞳矢の主治医の先生も紹介してくれた。
今は大学から出向してくれてるんだよ」


戸惑う真人君に僕は声をかけた。


その存在を認識した真人君は、
ようやく目の前の大夢さんにお辞儀した。


「おぉ、冬生、明日だけどなオレのオペのメンバーに入れるからな。
今日は予習しておけよ

メールだけ後で送信しておく。

なら、気をつけて帰れよ。
お疲れさん」


大夢さんに一礼して僕は再び愛車へと向かった。



真人君を助手席に乗せて檜野の家へと車を走らせた。


車を駐車場へと滑り込ませると、
そのエンジン音に気がついた和羽と瞳矢が姿を見せた。



「お帰りなさい。
 冬生、真人君。

 ご飯出来てるわよ」

「お帰りなさい。
真人、部屋も用意してあるよ。
昔、和羽姉ちゃんが
使ってた部屋なんだけど」


そう言って瞳矢は真人君の手を引いて
家の中へと入っていた。

戸惑いながら家の中へと入っていく真人くんを見送って、
僕はトランクに入っている真人くんの鞄を取り出して玄関へと向かった。


「瞳矢があんなに嬉しそうな顔、
久しぶりにみたわ。

最近、ずっと顔が曇ってたから」

「あぁ。
ALSの告知を受けてから、
少し落ち込んでいたけど、
少し希望が見えてきたんだ。

西園寺先生から、
ALSを完治させることは難しいけど、
少しでも進行を遅らせる治療を始めましょうって
今手続きを取ってもらってるんだ。
 
難病申請をしてからじゃないと治療が出来ないけど、
少しずつ自分と向き合いながら、
瞳矢も前を向いて行けたらいいな」


そう言いながら、
僕は家の中へと和羽と入る。


二世帯住宅の我が家は、
玄関が二つあり中で繋がっている。


手洗いとうがい、
そして着替えを済ませると
真人くんの鞄だけ持って、
義両親たちとの合同スペースとなる
リビングへと顔を出す。
 
「おかえりなさい、冬くん・真人君。
さて皆揃ったからご飯にしましょうか」

お義母さんの一声で、それぞれがテーブルへとつく。

「真人くんの席は瞳矢の隣よ。
おばさんの料理が口にあえばいいけど、
召し上がれ」


そう言ってお義母さんは食事をすすめた。

食事の後は、
瞳矢は真人君と共にピアノの前へと移動する。


瞳矢がピアノの鍵盤の蓋を開けると、
一音、一音確めるように音を鳴らす。


そしてその後、まだ今は思い通りに動かせる
左手で何度も瞳矢が弾いたことのあるメロディーが聞こえてくる。


そんな瞳矢に寄り添うように真人君が
ピアノの椅子を分け合うように一緒にすわつて
一つの曲を演奏し始めた。


久しぶりに華やかなピアノの音色が
部屋の中を包み込んで
お義母さんは和羽は嬉しそうだった。


洗い物を終えた義母が、
着席して小さく呟く。


「まだあんなに楽しそうに真人君と
一緒にピアノを弾けるのに・・・。

どうしてあの子なのかしら」


小さく呟く義母さんの声は、
自分自身を責めているようにも聞こえた。



真人君と生活を始めた2週間後、
ALSの進行を遅らせるための投薬治療が始まり、
さらに2週間後、
点滴の治療の1クールの為の入院が決まった。



真人君が一緒に生活するように、
彼も笑顔を見せてくれるようになったし、
瞳矢も笑ってくれてる。



弟たちが落ち着いてくれている生活は、
僕にとっても自分のことに
集中できるかけがえのない時間だった。


亡くなった父のように
外科医を目指したいと感じる今の僕には、
1分、一秒でも無駄に出来る時間はない。


大夢さんが教えてくれることをひたすら吸収して、
復習し続ける。



そんなある日、
僕の目の前に懐かしい姿が視界に入る。



「冬生、時間あるか?」



そう病院の関係者出入り口のドアの前で、
僕を捕まえたのは、他の病院で研修医を続ける早城飛翔。



「飛翔、どうしたの?」

「いやっ、少し時間が出来たから。
飯でもどう?

奥さんがOKだったら?だけどな」



そう言うと飛翔は
ポケットから車の鍵を取り出す。


「今日は和羽は、ダンス教室だから大丈夫かな。
ただお義母さんには連絡しておかないと」


そう言うとカバンから携帯を取り出して、
自宅へと電話をかける。


そして電話に出た真人君へと伝言を伝えると、
僕は久しぶりに飛翔と出かけた。


飛翔が予約してくれていたお店で、
夕飯を食べながら会話をするのは、
お互いの病院での研修医生活や近況の交換。


3月の下旬頃から、GWが終わるくらいまで
慌ただしく過ごしていた飛翔の話を聞きながら、
僕も慌ただしかった数か月を振り返る。


「無理するなよ」


帰り際、そう告げた飛翔は僕が抱えているものに
気が付いているみたいだった。


それゆえに、僕が話しやすいように
自分の近況を話して聞かせた。


生家に関わる一連の出来事を……。


多分、不器用な飛翔なりに
精一杯、僕を気遣って。


「……飛翔、先輩たちから聞いた?」

「いや」

「……義弟(おとうと)がALSなんだ。 

ちょうど明日から、
ラジカットの1クールめの入院が決まってる。

義弟の主治医は天李先輩だよ」


小さく告げると飛翔は無言で僕の肩を叩いた。


「まっ、俺もガキのお守が増えたから前ほど
自由はきかないかもだけど、
行き詰ったら連絡しろよ。

俺も散々、世話になってんだからな」


そう言うと飛翔は携帯の着信を受けて、
また慌ただしく何処かへ出かけた。


お開きになった
久しぶりの親友との息抜きの時間。


気持ちが少しスッキリした状態で、
帰路についた。



家の門をくぐると家の中には今日も、
瞳矢と真人君の仲睦まじい二人の合奏の音色が広がっている。



そんなピアノの音色を聞きながら、
ネクタイを緩めながら自分の部屋へと移動する。


スーツを脱いで、ラフな服装に着替えると、
明日からの瞳矢の入院を思い描く。


肝臓の数値が悪化しませんように。
薬の副作用が強く出ませんように。


大夢先輩が作成してくれていた、
今回の瞳矢の治療に関する資料に目を通していた。


良いことづくめだと感じていた僕だったけど、
気が付かないところで少しずつ歪が広がっていた。