「瞳矢、準備出来た?」


ドアの外、ボクの名前を紡ぐのは真人。


GWに行われたピアノコンクール地区予選。

そのコンクールの後、
住み慣れたH市へと一人移動して
自らの命を絶とうとした真人。

そんな真人は意識を取り戻し、
この町へと戻ってきた。

父親である多久馬院長の病院に暫く入院の後、
GWが開けて間もなくした頃、
冬生兄さんに連れられて我が家で生活することになった。


お父さんは今も単身赴任で、
自宅と赴任先を行き来して、
お母さんは、仕事と家事とボクの通院のサポートに忙しい。


冬生兄さんは研修医として日々忙しく過ごしながらも、
ボクのことをいつも気にかけてくれる。


和羽姉ちゃんは、趣味のダンスを続けながら、
バイトと家事とボクのサポート。


ALSと言う病名がはっきりとしてから、
ボクが何かをしようとすると、
家族や真人、浩樹、穂乃香たちまでもが
ボクの何かを手伝おうと構える。


急に変化してしまった環境に、
ボクはまだ馴染めずにいた。



ボクの手は確かに違和感がある。

だけどまだボクの手は
ピアノに触れることが出来る。


以前のようには演奏できなくても、
軽やかに右手で演奏することは叶わなくても、
左手だけなら、ショパンだってまだ弾けるんだ。

ボクはまだプレイエルに触れていられる。


そんな今が、ボクの心をまだ穏やかにしていた。


「真人、お待たせ」


制服への着替えを済ませて、
部屋のドアを開けると、真人が部屋へと入ってきた。


「真人、少し連弾をしない?」


そう切り出すボクに、
真人はゆっくりと頷いた。


真人がな無言で立つのはピアノの右側。
ボクの右手の代わりになるために。


プレイエルの前にある一つの椅子に、
二人で腰かけて楽譜立てに譜面を広げ、
ボクたちはアイコンタクトのあるショパンを奏でる。


子犬のワルツを軽やかに、
明るく響かせながら。


ノクターン第一番。
そして続いて、ノクターンの第二番。


ボクが左手で奏でて、
真人が右手を奏でる。


二人で合奏する一台のピアノ。


通学前の30分くらいをじゃれあう様に、
真人とプレイエルを楽しむとボクは神様へ感謝を捧げる。


ボクにはまだ左手があって、
ボクはボクらしくいられる。

もうピアノコンクールに出場することは叶わなくても、
ボクからプレイエルが居なくなることはない。


真人との合奏を楽しんだ後は、
自由に動くことがなくなった右指で、
プレイエルの鍵盤に触れる。

ピアノ初心者の頃に演奏していたバイエルすら、
単音で、時間がかからないと演奏は出来なくなってしまったけど、
まだ音が鳴らせる。

プレイエルに触れられることがボクを穏やかにしてくれていた。



「瞳矢、真人君、朝ご飯食べないと、学校に遅刻するよ。
 お母さんが呼んで来なさいって」


そう言って和羽姉ちゃんがしびれを切らして、
ボクの部屋に迎えに来るまで、
ボクは朝のひと時を真人と楽しんでいた。



今まで大変だった分、
ボクが真人の支えになるんだ。

その為に、
ボクは真人と一緒に生活することを決めたんだから。

その為には、
ボクは真人を守れるくらい強くなりたい。

そう奮い立たす気持ちが、
ボクをALSと言う難病を告知されても
前向きにさせてくれていた。


和羽姉ちゃんが呼びに来た後、
ボクと真人は慌てて、朝食を食べて、香宮へ向かって飛びだす。


駅へと向かい浩樹と合流すると、
ボクたちは三人で話しながら学校まで通学する。

学校の授業の後は、
三人で過ごすことが多くなった。


っと言っても、集まるのはボクの部屋。


ボクのプレイエルを囲んで、
たわいのない会話をしながら、
プレイエルを奏でる。


真人とボクはプレイエルに触れるけど、
あの日から浩樹はボクの前でピアノに触ろうとしない。


ボクと真人がプレイエルで奏でるショパンを
傍でききながら、何かを悩んでるみたいだった。

時折、きつく唇を噛み締めていたから。



その悩みをボクは、うすうす気が付いてしまってる。



地区予選に合格したということは、
浩樹も穂乃香も、
秋のグランドファイナルへの出場が決まったということ。


だけど……浩樹は、
ボクに同情してその出場に悩んでた。


今は出場を決めたみたいだけど、
ボクの前ではプレイエルに触れられないでいる。


そんな風に感じてしまうのは、
ボクが弱っているからなの?


だけど、怖くて浩樹を問い詰めることも出来ない。


真人も、浩樹の態度に何かを感じ取っているみたいだけど、
それに触れることはなかった。


穂乃香とは、あれ以来、逢えないでいた。


どんな顔してあっていいかボクもわからないし、
多分、穂乃香もそんな気がした。


ボクにはすぎた、年上の彼女さん。

お嬢様が通う、聖フローシアの三年生で、
今はテニス部の主将をしている。


だから学校が忙しくなったのかなって思うようにしてたけど、
お互い連絡が出来ないまま五月も終わりを迎えようとしていた。


放課後、診察があるときは、
お母さんか、冬生兄さんが学校まで迎えに来てくれて、
天李先生の病院へと向かう。


そこで、テニスボールから、小さな小さなBB弾までの球体を、
右手で掴んで移動させていく訓練などを続ける。


大きなものはまだ動かしやすくても、
卓球ボール、ゴルフボールより小さくなると、持ちにくい。


時折、筋肉のビクつきを感じながら、
何とか移動させ終えると、
疲労がどっと出てしまって気持ち的には息が上がっていく感じ。


そんな診察のある日、
天李先生はボクたちに告げた。



『難病申請の手続きをとってください』


その申請の後にボクは、
今のALSの進行を遅らせるための飲み薬を
処方できるようになるという事だった。


それと同時に、
点滴治療も検討に入っていると。



今すぐ、始められるわけじゃないけど、
少しでもボクがピアノに触れ続けるための
何かが出来ることがボクには嬉しかった。


難病の申請の手続きを取るということは、
ALSから逃げることは出来なくなる。


それでも、少しでも何か出来ることがあるというのは、
今のボクにとって十分に光だったんだ。




ボクはまだ……ピアノに触れられる。