放課後。十一朗と裕貴が一緒に部室に入った時には、既にワックスの姿があった。
 いつもは散らかっているワックス専用の席が、今日は奇麗に片付けられている。
 そして、隣の席も同じように片付けられ、どこから用意してきたのか『八木綾花』と書かれたネームプレートが置いてあった。
 黒板には色とりどりのチョークで『新入部員、八木綾花ちゃん。大歓迎!』と書かれている。
 こんなことを突っこむのもなんだし。と思った十一朗は、敢えて見ないふりをして席に座った。
 しかし、裕貴のほうはというと何か言いたそうに体を動かすと、突然、机を両手で思いっきり叩く。空気が震えるような轟音が室内に響き渡った。
 そんな裕貴の剣幕を見て、十一朗とワックスはそのままの体勢で凍りついてしまう。
 はしゃぎすぎた。雷が落ちるに違いない。ワックスはそう感じて殴られるのを覚悟したのだろうか。既に目を閉じながら構えている。
 ところが、
「ねえ、どうせなら今日歓迎会やらない? 近くの喫茶店でさ、彼女にご馳走するの。当然、代金は私たちもち」
 逆鱗に触れたどころか、妙な先輩ぶりを発起させてしまったらしい。裕貴は興奮して「我ながら、いいアイデア」と自分を称賛した。
 更に手を叩き合って、意気投合する裕貴とワックスを遠目で見ながら、十一朗は話を切り出した。
「まあ、案はいいだろうけど、一日目でそこまでの歓迎をされたら、逆に困るんじゃないか? 徐々に打ち解けあってから、そこで歓迎会が普通だろ?」
 十一朗の冷静な判断に、裕貴は納得したように「そうかあ」と答え、対してワックスはというと、
「そうだよな。はじめは友達から……そこから恋人っていうのが順序だよな」
 と、再び理解不能な飛躍妄想癖を発揮した。
 十一朗は呆れて、もう突っこむのをやめた。新刊の推理小説を開いて読みはじめる。
 そこに、軽快な足音が近づいてきて部室の前でとまった。しかも、律儀に扉を二回叩く。
「開いてるよ」
 新入生の登場にそわそわしているワックスを無視して、十一朗は声をあげた。
「失礼します……」
 言って綾花は入ってきた。手にはノートと筆記用具、警察関連本を数冊持っている。
 それを見た十一朗は、思わず笑ってしまった。
「本当に警察関連のものが好きなんだな……」
「はい、東海林先輩が刑事部長さんの息子さんだなんて、私の憧れです」
 意識しないで綾花は言ったのだろう。まず裕貴とワックスが息を呑んだ。続いて十一朗も動きをとめた。
 十一朗は開いていた推理小説にしおりを入れて閉じると、綾花を見る。
「知っていたのか……」
 押し殺したように呟いた言葉に、綾花が困惑した表情を見せた。裕貴もワックスも、事の進行を見守っている。
 刑事部長の息子。十一朗は父のお蔭で得た、その肩書きを好んではいない。
 だから、高校を卒業してからの進路は、大学で法律関係を学んだあとに決めると、漠然としたかたちのまま担任に伝えていた。
 それを裕貴は知っている。ワックスも知っている。
 綾花が十一朗の触れてはいけない部分を、一突きしてしまったということも。
 先程までの賑やかな部室が嘘のように、沈黙の時間が流れた。皆が話し出すタイミングを窺っている。その状態が居た堪れなくなって、逆に十一朗から話題を切り出した。
「そんなに警察関連が好きならさ……警視庁の見学ができるか、親父に訊いてみるよ」
 張り詰めた空気が一瞬にして、氷が融解するかのように流れ去っていく。
 ワックスが「どうしていいかわかんなかったよ」と安堵の息をついてからぼやいた。
 まだ緊張したままの綾花に裕貴が寄っていくと、彼女が持ってきていた警察関連本の一冊を受け取ってから笑った。
「見てプラマイ、すごいよこの本。蛍光ペンで重要なところを印してある」
 裕貴が開いて見せた本は、確かに奇麗に隅から隅までチェックしてあった。ただ好きというだけではここまで勉強しないだろう。
 綾花もようやく安心したのか、笑顔を見せて、また「ありがとうございます」と言った。
 その時だ。綾花の携帯が鳴った。面白いことに流れた着信メロディーは、最近視聴率が上位の刑事ドラマのオープニングだ。
「ごめんなさい。出ます」
 皆の視線を気にしながら、綾花は携帯電話を取り出すと、相手に返事をした。
 直後に、相手が何かを話したのか、綾花の顔が一瞬で蒼白になっていく。
「えっ、警察? はい……間違いないです。電車に?」
 綾花は唇と声を震わせたかと思うと、電話を持つ気力すら失ったかのように視線を虚空に固定させたまま、その場に座りこんだ。誰が見ても、正常な精神状態ではないとわかる。綾花の変わりように、隣にいた裕貴が気を遣って肩を抱いた。
 電話を切った後も、綾花は体を震わせたまま動けない。
「どうしたの? 私たちにできることなら、何でも協力するから話して」
 綾花の思考能力を混乱させないようにだろう。裕貴は優しい口調で綾花に訊いていた。
「電車に飛びこみ自殺したって……」
 綾花の衝撃の告白に、十一朗とワックスは顔を見合わせた。
 部活動の最中に、警察から伝えられた飛びこみ自殺発生という驚きの報告。
 まるで部員全員の混乱を具現化するかのように、授業終了から一時間がたったと知らせる鐘が、校舎内に響き渡っていた。