焙煎されたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐるのは久しぶりだった。店の扉に取り付けられた、入店客を知らせる鈴の音も変わってはいない。
 十一朗たちが注文する前に貫野は姿を見せた。後ろにいる文目は手帳を開いて思考中だ。
「コーヒーくれ」
 前と同じように貫野は店員とすれ違いざまに注文した。文目も倣って「僕も」と言う。まるで数十年間通っている常連客のようだ。店員は十一朗のところにもきて、注文を取ってから奥のほうへ消えた。
 見届けた貫野は椅子を引くと深く座り、偉そうに体を仰け反らせた。
「さーて、どこから話そうか。それとこいつは取引だっていうこと、わかっているよな?」
 何で立場が逆転しているのだろうと十一朗は思う。手元にあるのは重要証拠だ。貫野がどれほどの情報を手にしてきたのかわからないが、釣り合うような気がしない。
 とにかく先制攻撃を仕掛けようと考えて、十一朗は図書館で見つけた、十一年前の事件を書き取った紙を出した。
「その事件の『和田繁樹』って誰だか調べてほしいんだ。俺の勘が正しければ、意識不明の男の名前だ。追加でいうと、八木の父親がその事件で亡くなっている」
 貫野が慌てて紙をつかみ取った。先制攻撃の衝撃はかなりのものだったらしい。それでも、十一朗は満足せずに隣に座る綾花を見た。
 予期せずに知ってしまった、父の死を引きずっているのではないかと心配したのだ。
 気丈にも綾花は表情に出してはいなかった。いや、それよりもと十一朗は思う。彼女を連れてきたのは正解だったのだろうか。綾花の母が取り調べを受けている話題が出るのは確実だからだ。
「地元新聞の縮刷版か……考えたな。刑事でもここまで真剣に取り組む奴はいないぞ」
 貫野が珍しく褒めた。やはり進路を決めてから対応が変わっている。まるで別人だ。
 貫野は文目に紙を渡すと、綾花を一瞥した。母親が事情聴取を受けていることを、話すか話さないか迷っているのだ。変わって十一朗は切り出した。
「犯人が逃走中って書いてあるけど、その事件って解決していないのか?」
「十一年前じゃなぁ……俺が刑事になったばかりの頃か。よく覚えてないな。解決していないなら、特命が捜査しているはずだ」
 特命。警視庁特命捜査対策室は、過去の重要未解決事件を継続的に捜査するチームである。
 彼らが凶悪犯逮捕に努め、殺人事件などの凶悪事件の時効廃止が公布、施行された今、強盗殺人犯の逃げ道はないといってもいい。敢えて言うなら『死』だけだろう。
 貫野が覚えていないのなら、聞いても仕方がない。十一朗は貫野を再び見た。
「刑事になったばかりの頃って……貫野警部補って何歳? それで、未婚だろ」
「ちょっと黙れ。大人はいろいろあんだよ。それよりも覚醒した男は俺だけでやったの一点張りだ。で、店の防犯カメラを見たら、万年筆を買いにきたのはその男だった」
 貫野の説明を聞いて十一朗は息を吐いた。やはり、推理通りだ。男は何も語ろうとはしないだろう。左利きの共犯を庇っているのだ。
 今のところ、左利きの共犯に近い存在は綾花の母だ。しかし、万年筆を買いにきたのが男なら、綾花の母が疑われる理由は、顧客リストに名前が記載されていたからという理由しかない。
勝手に名前を借りたと男が言えばどうだろうか。一方的に想いを寄せていた。共犯など知らないといえば……釈放は時間の問題だろう。
 しかし、十一朗が渡した記事で謎の男が『和田繁樹』と判明したのなら、十一年前の事件で命を落とした八木の父の妻である八木の母との関係は繋がる。
 皮肉なことだが、八木は記事を見つけたために自分の母の首を絞めている。十一朗は事件が解決した瞬間、八木との関係が壊れないだろうかと考え、息がつまりそうだった。
 それでも、八木の父が殺された事件が始まりだというのなら調べるしかない。今は、彼女の母の無実を証明することが、ミス研の絆を守ることに繋がる。そう信じた。