「もちろん今でも、あの事故がなければ萌は自分が求めていた仕事に就いて幸せに過ごしていたんだろうって思ってる。だけど、この五年、萌がデザインの世界で地に足をつけて努力していたのもよく知ってるんだ。俺のことを出来の悪い息子だって笑い飛ばす別府さんに、俺が萌を大切に思っていることを見抜かれて以来、しょっちゅう萌の仕事ぶりは聞かされていたからな」
「別府所長? あ、美乃里さんと友達だから……」
「そう。俺のことなら母さんのお腹にいるときから知っているんだ。母さんと父さんの仕事が忙しくなったのと同じころ、別府さんもその名前が知られるようになった。だけど、大きな仕事ばかり舞い込んでくるのがわずらわしくて、「片桐」を辞めて独立したんだよ」
「うそっ。「片桐」をやめたって、あんな大きな事務所なのに……。でも、なんだかわかる気もする」
世間からの注目が高い仕事ばかりでなく、事務所の周囲一キロ圏内の小さな仕事も喜んで引き受ける別府所長を、ずっと見てきた。
大きな仕事がしたいのではなく、楽しい仕事がしたい。
別府所長の仕事へのテーマは単純だ。
けれど、自分がしたい仕事だけをして成り立つほど、事務所経営は甘くない。
もともと頭のいい人だから、そのことを一番わかっているのも別府所長だ。
「別府所長がときどき思い出したように大きな仕事をとってくるのは、私たちの生活のためだし。ほんと、奥が深いというか、つかみどころのない人」
思わずつぶやいた私に、翔平君も笑って頷いた。
「俺が萌を気にかけているからって、別府さんが萌を特別扱いしていたわけじゃないぞ。ただ、真面目に仕事に取り組んで、少しずつ大きな案件に関わる機会が増えていく様子をたまに教えてくれていただけだ。まあ、教えるというより、俺が知らない萌を知っていることを自慢していただけだったけど」
「そんなの、全然気づかなかった」
「だろうな。俺との深いつながりを萌が知れば仕事に集中しづらくなるって思ったんじゃないか? ま、それがわかっていたから、俺も別府さんは上司の知り合いだってごまかしてたけど」
軽やかな笑い声をあげる翔平君に包まれて、体がじわじわと興奮していくのを感じる。
この短い時間に知ることとなった重要かつ腹立たしいいくつかのこと。
そのせいで、体温も上がっているに違いない。

