この日の日記にはもう手紙は出さないことに決めたと書いてあった。
若林さんは返事を期待していない。今は住所不定。3年間も旅に出
るなんてもってのほかだわ。さっさと忘れて私も頑張ろう、と
決意が語られていた。

その後の日記は最後の真新しいノートになっていた。杏子は心機一転
新生活の戦いを開始したのだ。そして夏の終わりに若林治は日本を
旅立った。猛烈な残暑が続き新学期が始まる。9月の半ばに杏子先生
は教室で倒れそのまま入院、原爆病院へ転送された。

それからのことは後日詳しく日記に書かれているはずだ。何も知ら
ない治は12月7日にベナレスから手紙を出した。あの手紙は間に
合ったのだろうか?治はふと不吉な思いがした。

この年の日本の夏は猛暑だった。秋口とはいえその日も30度を超す
残暑の中で杏子先生は倒れた。やはり若林の名を叫んだそうだ。

「3日前に私はまた倒れた。この9か月間発作は起きなかったのに。
この病気にはどうしても勝てないのか。この夏の暑さのせいか、身体
の中で毒のとげと生きる命とが闘っている。またとげにやられたのだ。

発作は突然に来る。背骨にいきなり衝撃が走る。とても立ってはいら
れない。ほんとに痛くて熱くて苦しい。意識と神経ははっきりして
いるからまさに地獄の苦しみだ。また若林さんて叫んだらしい。
恥ずかしいったらありゃしない。

衝撃が強すぎると耐えられずに気絶して倒れてしまう。それでも
意識が戻るときには必ず若林さんが医者になって私の手を握りしめ
励ましていてくれている。頑張れ杏子!生きるんだ杏子!って。
ほんとにうれしくて元気が出る」

「今日原爆病院へ転院になった。また今回も長引きそうだ。あの苦
しい検査が続くのかと思うと気が重くなる。早く学校に戻らないと。
子どもたちはどうしているのかな。まだ面会は無理かな」

「検査が前の時より厳しい。医師の対応も微妙に違う。もうだめかも」

「1日に1度背骨に小さな衝撃が走る。節々が痛く体がだるくて眠い。
痛くて夜中に目が覚めた。子供たちから千羽鶴、とてもうれしい」