もう1通、柴山杏子宛てに出した手紙があった。
農学部に入学した年の暮れに出したものだ。短いものだった。

「杏子さんお元気ですか?去年の年の暮れには下宿先まで押しかけて
一方的に喋り捲ってほんとにすみませんでした。相当受験直前の
ストレスとプレシャーで気が狂っていたんだと思います。

男には変なプライドがあってそれが達成されないと、極度の
ストレスでノイローゼになります。暴力をふるったり、自殺未遂を
したり、ほんとに発狂したり。その一歩手前だった気がします。
言い訳がましいですがほんとにすみませんでした。

入学後親許との約束通りこれからは自活していくことになりました。
とにかくはアルバイト三昧に入ってお金をためて海外放浪の旅に
出ようと思っています。何かを見つけに3年間旅に出ます。幸い
休学は3年まで、その間授業料はいりません。

何かを見つけてたくましくなってから復学しようと思っています。
これから教育実習で幟町小学校ですね、頑張ってください。
また落ち着いたら便りします。

1968年12月7日             若林 治

柴山杏子様                          」


入学と同時に松田が演劇やろうと誘いに来て「風波」と言う演劇集団
に入った。他の大学からも参加してて総勢20数名、大道具の係りに
なって大忙し、バイトと演劇でほとんど授業には出れなかった。

柴山杏子宛ての3通は間違いなく治が出したものだったが後の3通は
別の大型封筒に入っていて、出してみるとすべて宛名は若林治様に
なっていて3通とも切手が貼ってあるのに消印がなかった。

差出人は柴山杏子が2通で後の1通は父親らしき柴山清三郎と
連名になっていた。日付を見ると連名が1970年12月30日。
後の2通が1969年12月30日と1968年12月16日だった。