『小さな声2』

 足元にある小さな命って気づきにくいものです。
 私が草花の声を聞けるようになったのは、母が花屋をしていたことと、多感な年だったということがあったからかもしれません。
 水が欲しいと言われた時には水をやりました。虫に食べられていると言われた時には、虫を見つけては遠くに逃がしました。そう、彼らは私たちのように逃げることができないのです。ですので、その話を聞いてあげることが私にできることだと思っていました。

 その日の早朝は雪が降っていて、私が起きて外に出た時には辺りは銀世界になっていました。冬でも葉が落ちない常緑樹たちは、雪の重みで苦しそうにしていました。私は拾った長い棒で、木々に積もった雪を払い落していきます。その時です。
 寒桜に寄りかかるように座る、小さいおじいさんの姿が目に入りました。
「大丈夫……ですか? 元気がなさそうだけど」
 慣れない敬語を遣って訊いてみると、おじいさんは驚いた顔をしました。
「こりゃ驚いた。お嬢ちゃん、わしが見えるのかい」
「ばやけているけど見えます。おじいさんは桜の精?」
 おじいさんが寒桜の精と思ったのは、寒桜の近くにいたからという理由だけではありませんでした。寒桜は雪の重みで折れていたのです。桜はデリケートな木です。折れた部分から腐って枯れてしまう木でもあります。
 おじいさんの顔色は真っ青で、つらそうな呼吸をしていました。
「もう、わしも限界かな。市役所の者もきたし、引き時なのかもしれん」
「引き時って、どういう意味?」
「いや……お嬢ちゃんが気にすることはないよ。ありがとよ。話を聞いてくれて。お蔭で気分が晴れたよ」
 そういうと、おじいさんは寒桜に手をついて消えました。子供でしたから、何となく、桜の中で寝たのかなと思っていました。そして、引き時という言葉も知らなかったのです。
 そして翌日、学校から帰ってきた時、私は泣きたくなるような光景を見ました。
 寒桜の木が切り倒されていたのです。私はランドセルを背負ったまま、木を切った業者につかみかかって泣き叫びました。
「どうして切ってしまったの。助けられたかもしれないのに、どうして切ってしまったの」
 けれど、返ってきたのは「怪我をする子がいると危ないだろう」「決まりだから切るしかないんだよ」という、言葉の繰り返しでした。
 公園に折れそうな桜を置いておくのは危険という判断から、切り倒されたと後で聞きました。思えば、寒桜の精が「市役所の者もきた」というのが、その前兆だったのかもしれません。
 私はその事実を受け入れられずにいました。けれど業者にも理由がある。
 寒桜の精はそれを知っていたので、私に「お嬢ちゃんが気にすることはない」と言ってくれたのでしょう。寒桜が逃げることができたのなら、きっと切られずにすんだはずです。
 それなのに――。木は逃げることができないのです。
 納得ができずに更に業者に言おうとした、その時です。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」という小さな声が聞こえました。
 ハッとして見てみると、寒桜の木のところに小さな男の子がいます。
「わしだよ、わし。寒桜の精だ。といっても、姿は変わってしまったがね」
 私には何が起きたのかわかりませんでした。それなので、寒桜の精に理由を訊くと、根元から新芽が出ているので、そこからまた大きくなれると教えてくれました。
 生き続けるために吸収していた栄養を、成長するための栄養に代えたので、姿が老人から子供に変わってしまったのだと。
 人は感情動物なので、生きるという単純な作業を思いこみすぎなのかもしれません。
 それに対して彼らは生きることに純粋なのでしょう。
 あれから、三十年が経ちました。大人になってしまったせいでしょうか。小さい頃に見えていた草花の精たちは、今は見えなくなってしまいました。けれど先日、ひとり娘が私に「お花さんが寒いって言ってるよ」と教えにきました。霜に弱い花を、家の中に入れるのを忘れていたのです。
 そういえば、シロツメクサの精の話をした時、母は何も聞かずただ笑って公園から植木鉢に移動してくれました。もしかしたら、母も小さい頃には声を聞いていたのかもしれませんね。
 私も母と同じように敢えて娘には何も言わず、笑って花を家の中に入れました。
 子供でも、きっと自分自身で何かを感じ取ってくれるはずだと思いますから。

 身近な場所にいる小さな声の物語。ほんの少しだけでいいです。外に出た時、草花に目を向けてください。季節ごとに変わる彼らの姿を見るだけでも、心打たれるはずですから。
 そして、今、あの寒桜は奇麗な花を咲かせて公園にくる人たちの目を和ませています。