短編集 ~一息~

『夢湯剤』

 いつ頃からだろうか。夢とか希望とか目標を見失ってしまったのは――。
 今日も残業をして疲れ果て、体を休ませるだけにあるような自宅へと戻る。
 妻は一歳の子供を連れて実家に帰省中だ。夜泣きが酷いため、黙らせろと怒ったところ、その日の夜に「しばらく、お母さんに面倒を見てもらいます」と、置き手紙があった。
 それなので、今は家に帰っても真っ暗だ。夕食もコンビニで買っている。深い息を吐くと、白い息が出る。今日は物凄く冷えこむな。はやく風呂に入ろう。そう思った時だ。
「こんばんは、ご主人さまですね。よければ我が社の商品を買っていただきたいのですが」
 振り返ると、細い目の男が笑顔を浮かべたまま立っていた。
「すまないが、今日は疲れているんだ。またにしてくれないか」
「疲れていらっしゃる。では、好機です。すこしだけお時間をくださいませんか? 素晴らしい商品を紹介しますよ。ご希望に添えなければ、雀の涙ほどの自分の給料から返金しますので、是非に是非に」
 多少強引とも思えるが、これが営業術というのだろうか。
「君の熱意には負けたよ。私も営業職だからわかる。こんなに夜遅くに仕事なら、相当、売りたい商品なのだろう」
「ありがとうございます。こちらお近づきの印に名刺を」
 名刺を受取って玄関に通すと、男は持っていたカバンから洗面器を出して、ポットのお湯を入れた。そして、数個の錠剤を出す。
「こちらが我が社の製品、夢湯剤です。こちらは入浴剤でして。一錠風呂に入れると香りが充満。その香りが脳へ直接働きかけ、素敵な幻想を見せてくれるのです」
 何とも不思議な説明に面白半分で聞きながら、ただ「へえ」と相槌だけ打つ。
「説明より、まずはご覧あれですね。では、ご主人さま。少年の頃に見た水族館を思い出してください」
 言われるがまま、子供の頃に見た巨大水族館を思い出す。その瞬間、男は湯を張った洗面器に錠剤を投入する。すると、信じ難い光景が目の前で展開されていた。
 巨大なクジラが壁を突き抜けて悠々と進んでいく。マンタがそのクジラについて行き、イルカが体を翻しながら歌を奏でる。色とりどりの小魚たちが、私を中心に周回していた。
「これは凄い」
「凄いでしょう。脳に影響はないのでご心配なく。この錠剤は海です。他にも虹、空、あとは試作品になりますが、美女や金もあります」
「全部の種類をくれ」
「お買いあげ、ありがとうございます」
 驚くことに、その入浴剤は普通の入浴剤よりすこし金額が高いくらいだった。値段を知って、もっと買いたいと言ったが、男は「またきますので、その時に」と言った。
 その日の風呂に入れたのは虹だ。これもまた凄かった。いくつもの虹が出たり消えたりする。反射しては風呂の湯に溶けこむように消え、また現れる。気づくと、茹だるくらい風呂に浸かってしまっていた。
 明日は空がいいかもなと思いつつ、美女の入浴剤も気になる。結果、次の日は美女を投入した。だが、美女は一瞬だけ出て姿を消してしまった。がっかりして、次の日は空を入れる。しかし、これも思った以上のものではなかった。では、また海を見るかと思ったらこれも出ない。初日に風呂場で見た虹も出なくなってしまった。
 どういうことだろうか。せっかく買ったのにと困り果てて名刺にある番号に電話をかけると、あの男が出た。
「では明日、先日と同じ時間に参ります」
 男と話ができたことで安心する。すると、電話を切った途端に電話がなった。相手は妻だった。
「明日の夜に帰るから玄関のカギを開けておいて」
 妻の言葉に生返事で答え、脳内で深い溜め息を吐く。あの夜鳴きに悩まされるのかと憂鬱な気分になる。
 翌日の仕事内容はお蔭で散々だった。仕事に集中できなかったのだ。大事な書類に誤字があると叱られる。お客さまへ渡す商品の注文数を伝え間違え、慌てて修正してもらうというへまもした。
 重い体を動かして帰宅する。その玄関の前に夢湯剤を売ってくれた男と妻がいた。
「お帰りなさいませ。ご主人さま。いや、驚きました。わたくし、奥さまに商品を売ったことがあるのですよ。世間って広いようで狭いです」
「私は花が一番好きなのよ。また花を売ってくれないかしら」
 にこやかに笑いながら妻に入浴剤を男は渡す。私もはじめの感動を思い出したくて、海と虹を頼んだ。美女と金を買っていたというのは妻には内緒だ。その妻の腕の中では、あれほど泣いていた我が子が静かに眠っている。
「あなた、今日はこの子をお風呂に入れてもらえる?」
 夢湯剤を楽しもうとしたところで、その頼みかと思いながらも引き受けるしかない。
「お子さんには空をおすすめいたしますよ。ご主人さまも見られなかったということですし、それが良いかと思います」
「では、そうします」
 商品を受け取り、男が帰るのを見届けると、子供を抱いて風呂に入ることにする。言われた通りに「空」の錠剤を投入したが、何も見えない。その時だ。我が子が腕を伸ばして、必死に話しはじめた。はっきりではないが、「あー」「うー」といったものだ。
「お前には見えるのか。私は見えなくなったんだよな。どうしたら見えるのだろうか」
 ふとその時、男が言っていたことを思い出す。
『少年の頃に見た水族館を思い出してください』
 純真な子供には見えるものなんだな。こんなに笑って……こんなに我が子は可愛いものだったろうか。泣いていた日々が嘘のようだ。
 その途端、急に視界が明るくなった。驚いていると、目の前にあるのは流れゆく雲。羽ばたく鳥たち。 我が子の手は鳥たちに触れることができそうな位置にあった。やがて空は青から赤へと変わり、闇に包まれていく。風呂場には満天の星。丸く青白い月も出た。
 何故か涙がこぼれ落ちる。まるで、鬱屈という名の憑き物が落ちた気がした。
 今日は良い夢が見られそうだ。我が子もこれだけはしゃいだんだ。夜鳴きせずにぐっすりと眠ることだろう。
 湯冷めしないようにしよう。そして、夢冷めもしないようにしよう。
 そして、今なら我が子が夜鳴きしても、泣くのは子供の仕事だと許せると思った。