『叶った願い』

 男には、かつて果てしない数の願いがあった。
 しかし、その願いが叶えられる立場になった途端、男の人生は虚無ともいえるものになってしまった。
 真の孤独といえる生活のなかで叶う夢など、何の意味があるのだろうか。
 目の前で願っていく者たちを見ていると、男はそう感じることがある。
 除夜の鐘をついて煩悩を払ったという気持ちでいても、解脱したとしても、人の欲の核というものは完全にはなくならないのだろうと。
 大切なモノが人であったのなら、その人の一生の幸せを。物であったのなら、永遠に手元に置いておきたいと思うものではないだろうか。
「神様、神様。考え事をしていないで絵馬を確認してください。それと初詣にきた者たちの願いのまとめの書類も」
 男が神無月の日に出雲神社に行った時の、神様代理がそう指示する。
 これに男は重い息を吐いた。
「いや、自力で叶えるから願いが叶ったと実感できると思うのだよ。私は」
「またサボるために考えた妙な持論ですか」
「いやいや、神様になった私がそう思っていることなのだ」
 三年前、男はこの神社に初詣にきていた。くるまでは良かったのだが、物凄い人の数で賽銭を入れると適当に「自分の願いを全部叶えたいので、神様にさせてください」と言って帰ったのだ。
 その日から一か月後――。
 男は夢を見た。黄金色の光を全身にまとった人が現れる夢を。
「おめでとう。君の願いが一万分の一の競争率から見事通過して選ばれた。今日から君は願いを全部叶えることが出来る神様だ。存分に力を利用してくれ」
 男が目を覚ますと、この社の中にいた。理解できずに愕然としたほうが先だった。
 そこにこの代理が姿を現して言ったのだ。
「新しい神様、はじめまして。私はあなたの助手をこれから務める者です。願いが叶えられたので、すこしあなたへの権限が追加されます。それは神様としての仕事をしっかりと務めることです」
 その神様としての仕事がくせもので、重要な時以外は社から出られない。人間に悪い影響を与える願いは叶えてはいけない。人間の時の身内や知人の願いは叶えてはいけない。他にもエトセトラ……。
 そこで男は思ったのだ。俺の願いは何だったっけと。
 金持ちになりたい。恋人が欲しい。有名人になりたい。名誉が欲しい。
 いくつか考えて答えに行き着いた。この社の中から出られない。その願い、叶える意味があるのかと。
 つまり神様になったことで男に課せられたのは、神様の仕事だけだったということだ。
 男は代理に言われて仕方なく、絵馬を確認していく。合格祈願。無病息災。家庭円満。
 これならまだいいほうなのだ。なかにはふざけた願いもあるわけで。このなかから、一万分の一の確率で願いを叶えなければいけないのだ。
 そして、それは適当に選んでもいけない。周囲に大きな影響が出ない願いに限るのだ。
「この家族円満と合格祈願かな。どちらも影響がないとなっている」
「ふむふむ。確かに確認しました。ではそれで決定としましょう」
 代理が取り出した宝珠を受け取り男が祈ると、その者の願いが叶うというシステムとなっている。
 しかし、その時、男の視界にひとつの願いが飛びこんできた。
「これはどうだ。影響がないと出ている。私を神様にしてくださいという願いだ」
 男の言葉を聞いて代理は覗きこむ。そして、しばらく考えてから答えた。
「いいですが、それを叶えてしまうと、あなたは神様ではなくなりますよ。現世に戻ることになります」
 これが逃げられるチャンスとばかりに、神様である男は興奮していく。
「それでいいんだ。この者を次の神様としよう。決まりだ。早速、夢枕に立つ準備だ」
 先程までののんびりとした動きが嘘のように、男は機敏な動きで神としての最後の仕事を果たそうとする。
「わかりました。そういうことであるのなら、それで決定としましょう。神様、今までおつかれさまでした。お別れは悲しいですが、どうか現世でも、お元気で」
 神様をやめた男と代理はかたく別れの握手を交わすと、本格的な準備に入った。代理は新しい神様の受け入れ態勢を整えるための準備をはじめる。
 社の隠し部屋に入ると、願いを叶える宝珠と神様としての仕事の詳細を綴ったマニュアルを出す。
 そして、そこで代理は深い息を吐いた。
「まったく、最近の若者は……仕事は楽だと思いこんでいる根性なしが多い。たったの三年でやめか。しかし、この代理神方式は楽だな。嫌な仕事は全て任せて、私はその間に宝珠を持って下界に遊びにいけるのだから。さてさて、今度の神様は頑張って何年間働いてくれるかな」
 そんなことを言いながら、代理は貯まった賽銭を取り出すと、これから下界のどこに遊びにいこうかと脳内で計画をたてはじめた。