『相手は』

 二年前の寒気極まる季節。女性は一生忘れられない、悲しい出来事を体験していた。
「俺に一生ついてきてくれないか」そう告白してくれた男性との突然の別れ。予期していなかっただけに女性は家に閉じこもり、回想するたびに号泣した。
 不幸が起きた後に幸運が舞いこめば、今後の人生の糧になるのかもしれない。
 しかし、女性のもとに神は舞い降りなかった。室内に響いた音が、閉ざしていた心の扉を叩いたのだ。

 それは昼時に鳴り響いた電話だった。食事の準備をしていた女性は、慌てて受話器を取る。すると、電話の向こうから妙な息づかいが聞こえた。
「……今、どんな色の下着をつけているんだい」
 相手は明らかに変質者だった。非通知回避機能のある電話なら、妙な男の声を聞く必要もなかったのかもしれない。そして、どこで電話番号を知ったのだろうと考えてもきりがない。その日は聞こえなかったふりをして、電話を切った。
 すると数日後――また昼時に電話が鳴った。恐る恐る出てみるとあの声だった。
「ひとりで淋しいんだろう。相手をしてくれよ……」
 女性は電話を切ろうとしたがやめた。向こうは自分の顔を知らないらしい。相手がどうするのか、経過を見届けるのも一興かと考えたのだ。
 黙って聞き続けていると、男は卑猥な話を続けた。一方的な語りで性欲を満たすつもりらしい。こんないたずら電話があると女性は聞いてはいたが、まさかこの時勢に自分の家にかかってくるとは思ってもいなかったので驚いた。
 ――とはいっても、この話はどこまで行きつくのだろうか。
 女性が考えていると男の話がとまった。男も黙り続ける相手に困惑しているらしい。
 互いに出方を窺う、奇妙な時間が経過していく。
 ついに女性は我慢しきれなくなって、男に向かって話しかけることにした。
「それから、どうしたんだい?」
 女性が声を出した途端、男はわざとらしいくらいの大きなため息を漏らした。
「なんだよ、ばばあか……」
 この一言を最後に電話は切れた。受話器からは相手がいなくなったことを教える単調な音だけが響く。
 受話器を置いた女性は、手にしていた仏飯器に米を盛ると居間に足を向けた。
「やっぱり切られてしまったね。男の人に言い寄られるなんて久しぶりだから、嬉しかったのにさ……こんな気持ちになったのは、二年前にあなたと別れて以来だねえ」
 女性は今の奥に置いてある仏壇の前に座ると、二年前に他界した夫の位牌を見た。
「いたずら電話の相手なんて顔も知らないわけだからね……きっと向こうは無駄な時間を費やしたと思ったろうさ。けど、私は話し相手ができたようで嬉しかったんだけどね」
 思いがけず若い男に英気を養われた老女は、久しぶりに三面鏡の前に座ると化粧をした。