その後の体育教員室は
まるで葬式のように
静まり返っていた。

ただただ,
朔と彼女の
食べる音だけが響き渡る。

楽しそうに帰ってきた
坂本先生と福原くんは,
張りつめた教員室の雰囲気に
驚いていた。

「え?何があったの?」
「高比良先生,
 なんかしました?」

「・・・してねえよ。」

朔は不機嫌そうに
そう答えた。

「すみません。
 私が,立ち入ったことを
 聞いてしまったもので・・・。」

そういってすまなさそうな
顔をする倉田先生。

事情を知っている
坂本先生と福原くんは,
朔と顔を見合わせた。

朔は首を横に振った。

つまり・・・
彼女は全てを理解した
わけじゃないということを
坂本先生と福原くんに
伝えていた。

彼女はきっと
朔のことは
たぶんできちゃった結婚で
しかたなく結婚したけど
すぐに別れて
子どもも押し付けられた
可愛そうな男・・・
だとでも思っているのだろう。

それをみて
坂本先生と福原君は
クスクスっと笑った。

 しばらく倉田先生には
 ばらさないつもりだな。

朔は坂本先生の
にやりとした顔を見て
そう思った。



「高比良さん,お若いのに
 大変ですね。」

「いえ,そんなことは。
 俺も由宇といるのが
 いちばん
 癒されますし。」

朔は由宇のことを
気遣ったわけではなく
自然とそのような言葉が
出ていた。

「・・そうですか。
 由宇くん,ホントに
 しっかりしていて
 いい子ですもんね。」

古川先生はもしかしたら
お世辞のつもりで
いったのかもしれないが,
朔にとっては,
なんともこそばゆいような
少し誇らしいような
気持ちだった。

きっと,由宇が
どんなやんちゃ坊主の
わがまま坊ちゃんであったと
しても,きっと
朔にとってはかわいくて
たまらなかったとは思うが,
未熟な自分を
なんなら支えてくれているくらいの
由宇の性格は
朔にとってはありがたかった。

だけどその反面,
由宇は遠慮しているのではないか
自分が気を遣わせ過ぎている
のではないかという
悩みも朔は抱えていた。

「いろいろとご迷惑
 おかけするかもしれませんが
 よろしくお願いします。」

朔は古川先生に
頭を下げると
古川先生は優しく
微笑んでくれた。

「いえいえ,こちらこそ。
 職場もお近いですし,
 困ったことがあったら
 何でも言ってくださいね。」

「はい,よろしくお願いします。」

朔は由宇を肩車したまま
家路についた。
夕暮れ過ぎの帰り道。
朔と由宇は今日の話をしながら
こうやって帰るのが
日課となっていた。

この生活もあと1年しかないのか。
朔はタイムリミットが見えた
この由宇とのこの時間に
少し感慨深さを覚えていた。

「ぼくね,れんげぐみだったよ。」

「へえ。あと何組があるの?」

「えっとね,バラぐみとユリぐみ。」

「ふーん。全部
 花の名前なんだな。」

「うん!」

夕暮れを背景に家路につく
朔と由宇の姿は
誰が見ても親子そのものだろう。

まるでホームドラマのような
この風景に
朔自身,少しだけ
酔っていた。
「まるで父親だろ?」と
由宇に言い聞かせるように。

そして,このときの朔は
知る由もなかったけれど,
そんな朔と由宇の様子を
見つめている人物がいた。

帰ってきたら,
由宇は,園バッグの中から
連絡袋を取り出して
朔に持ってきてくれる。

これは年少のころからの
由宇の日課だった。
誰が教えたでもないが
こういうところが
幼いながらも
由宇の誠実な性格を
如実に表しているように思えて
朔はすこし可笑しかった。

ひらがなが少し読めるように
なってきた由宇は,
去年の冬頃から
手紙を出しながら
朔に説明して
くれるようになった。

「これが,れんげぐみだよりで
 こっちが『えんだより』で
 こっちが
れんらくひょうで・・・。」

その度に,朔は
由宇のことを
天才なのでは?
・・なんて思っていた。

そして,また,
 いや幼稚園児って
 こんなものか?
なんて自分の「親バカ」ぶりに
照れてもいた。

教育に関わっているとはいえ,
朔は高校教員。
幼児の発達過程など
さっぱりわからない。

「よし,ありがとう。
 読んどくよ。
 連絡票は書いておくな。」

由宇が幼児として
優秀なのかどうなのかは
置いておいて,
由宇は幼稚園児としては
確実に成長を遂げていた。

そして,朔も
由宇に比べたら
随分とスローペースでは
あったが,
「園児の保護者」としての
自分の成長も
微力ながら感じていた。
園から配られたお便りは
きちんと熟読する。
提出物はすぐに返信する。

これは,同業だから
朔にはよくわかった。

提出すべきものが
遅れると,
集める方としては
とても困る。

そして,連絡事項も
きちんと読んでほしい。

朔の学級のれんげぐみの
学級通信である
「れんげぐみだより」は
イラストがたくさんで,
きれいな字で手書きで
作ってあった。

 やっぱり保育園の先生は
 こういうのすごいなあ。
 参考にしよう。
なんて,教師としての
立場がつい顔を出してしまう。

連絡票には,
緊急連絡先とか
家族構成とか
そういうことを記入する。

高校生でも必要だが,
自分で連絡できない
園児にとっては
非常に重要。
いざというときの
命綱なのだ。

 「えんだより」は
 毎年大体同じだよな。

朔はそう思いながら
「えんだより」に
目を通した。

4年目ともなると
大切なところはわかってくる。

朔はさらっと
目を通していると
転勤してきた先生の
名前が書いてあった。


そのとき・・・

朔は思いもしない名前を
目にした・・・。



”南保育園より
 
 高須賀 陽和
 (たかすか ひより) 先生
 (すみれぐみ)”


え?
・・・え?

ひよ・・り・・・?




あの・・・
陽和・・・なのか?





朔は一瞬目の前に
強い光を感じた。

心の奥底にいつもあった
この名前に
こんなタイミングで
出会うなんて・・・。



 そういえば・・・。

朔はあることを
思い出していた。

朔は,何年か前に
久々に行った同窓会で
陽和のことを聞いていた。

あの日,陽和は
同窓会には
参加していなかった。

「いつもの年なら
 参加するのに
 朔ちゃんついてないな」

朔は,仲良しの公ちゃんに
そんな風にからかわれた
ことを覚えている。

朔が小学生のころ,
陽和のことを
好きだったことは
かなりの人数が知っていた。

久々に行った同窓会で
そのことを突っ込まれた
朔は,陽和がいなかった
ことにがっかりしつつも,
あまりに気まずくて,
今日は陽和に会えなくて
正解だったとも思った。

陽和と仲の良かった
真由は,朔のところへ来て
やっぱり朔をからかいながら
陽和のことを話し始めた。

「陽和は,隣県の
 大学に行ってて
 今,実習中だから
 来られなかったみたい。
 残念がってたよ。
 もしかして朔ちゃんに
 会いたかったかもよ,
 陽和も。」

朔は,内心,
「馬鹿なことを言ってるんじゃ
 ないよ・・。」
と思いながらも,
それが本当だったら
嬉しいという思いを
抱かずにはいられなかった。

からかわれることを
覚悟しながらも,
どうしても聞かずには
終えることができず,
朔は,陽和が今
どうしているのかを
真由に聞いた。

陽和は今,
保育士を目指して,
県外の大学に進学して
いるらしい。

今日は「保育実習」と
いうものだとのこと。

 俺たちでいう
 教育実習といっしょかな?

と朔は陽和のことを
思い浮かべていた。

 保育士さんか・・・

朔は,朔の知っている
あの頃の引っ込み思案な
陽和からは考えられないなと
思っていたが,
周りの反応はそうではなかった。

中学校・高校と
陽和と一緒だった子たちと
陽和のことを話すと,
誰しも「陽和らしい」と
言った。

公ちゃんも,
「陽和には
 ぴったりだよな。」
と言った。

朔は自分の知らない
陽和の姿に
嫉妬にも似た不思議な
気持ちを抱きながらも,
みんなの話をきいて
陽和に会ってみたいと
素直に思った。

そのとき,
大人になった陽和に
会ってみたいと
強く思ったことを
今,朔は思い出していた。


あれから・・
数年が経った。

陽和が保育園の先生
ということは
大いにありうるなと
朔は思っていた。

それが,由宇が通う
保育園だという
偶然も・・・ありうる。

それに,太陽の陽に
和と書いて
陽和っていう名前で・・・

しかも同姓同名なんて
そうそう居ないような
気はする。

朔の中では
おのずと結論が出た。

 やっぱり・・・
 あの「陽和」なのかな。



うれしいような
びっくりしたような
未だ信じられないような
気持ちで,
朔の鼓動は大きく
高鳴っていた。

 大人になった陽和に
 会えるかもしれない。

 陽和はどんな女性に
 なっているんだろう

 俺のこと,
 わかるかな。

 俺も,陽和のこと
 ちゃんとわかるかな。


そのとき,朔は
うっすらと自分の
心の奥底に
押し込めて来た気持ちに
気付き始めていた。

まだ・・・
陽和のことを思う
気持ちが・・・
心の奥底に
冷凍されていたってことを。

そして,小さなこんな
きっかけが
それを・・・
溶かし始めていることも。