それから少しして、界人はバイトをやめた。





大学も一時休学して、上京したのだ。





店長の話によれば、「klang」の「kaito」には、随分前から東京の「お偉いさん」が目を付けていたのだとか。





このまま「klang」でバンドを続けるか、東京で「kaito」ひとり、別のバンドでデビューするか。





そんな境遇に、当時の界人はあったらしい。





「『klang』のメンバーは全員、快く界人を送り出すつもりだったんだけど、界人はあの性格でしょ?『みんなを裏切りたくない』とか言って、随分悩んでたみたい。そのせいで、一時バンド内もモメてたし」






年明け早々の週末、金曜、午後10時。





ほとんどお客さんのいない、寂れたファミリーレストラン。他店からヘルプで来ているらしい無愛想なウェイターに業務を任せて、店長は相も変わらず私と向かいの席で、コーヒーを美味しそうに飲んでいる。





「だいぶ煮詰まってたように見えたけど、案外あっさり東京行っちゃったなァ。なんでだろ」





わざとらしく首をかしげて、店長が誰にともなく疑問を投げかける。






「さァ」





店長の尋問を早々とかわしながら、あの夜の界人の言葉を思い出す。






“進んで、ちょっとしたら…”





「そーゆーコトね」





つまりあれは、界人なりの別れの挨拶だったのだ。





私の自惚れでなければ、多分界人はあの瞬間に、東京行きを決めたのだと思う。





界人はそれっきり連絡も寄越さずに、年が明けたころにはさっさと東京に旅立ってしまっていた。





分かりにくい上に回りくどいことこの上ない、そんな挨拶だったけれど、私にとっては都合がよかったのかもしれない。




もしあの時、界人がはっきり「東京に行く」なんて言っていたら、私は何と返していたか、分からない。





界人の背中を押すだけ押して、「好きだから行かないで」なんてことを万が一にも言っていたら、笑い話じゃ済まされない。





何より、彼とは再会の約束も、ちゃんとした。





ちょっとしたら、の「ちょっと」が、界人の中でどれくらいかは分からないけれど。




せいぜい2、3年やそこらだろう。





「まァ、3年くらいなら、待ちますよ」

「え、なにが?」

「いえ、こっちの話です」





店長の問いかけをスルーして、窓の外をふっと眺める。





遠くの街灯りが、優しくチカチカと明滅している。





コーヒーの香りを楽しみながら、くいっと飲み干し、語りかける。





待つよ、3年くらいなら。






だってそうでしょ?





3年なんて、そんなに長くは、ないのだから。