その日一日は、とても仕事にならなかった。

のぞみが「山崎さん大丈夫?」と何度も声をかけてくる。その都度翠は頷いたが、実際のところ大丈夫ではなかった。

大翔がこの近くに住んでいる。

そう思うと、胸が張り裂けそうになった。大学時代の甘い記憶がよみがえり、自分がどれだけ彼を好きだったかを思い出す。寮の狭いベッドに潜り込んで笑いあったことや、自分たちの未来を真剣に語り合ったこと。

自分たちの未来。

一緒にいると信じていたのに、それは夢にすぎなかった。

閉館の時間。戸締りをして、身支度を整える。

始終ぼんやりしていた翠を気遣って、のぞみが「早く帰ってゆっくり休んで」と声をかけてくれた。

翠は「ありがとうね」と言って、図書館から外に出た。

車のクラクションの音。
顔を上げると、いつもの黒の軽自動車が止まっている。翠は助手席の扉を開けた。

「オカエリー」
ジェニファーの明るい声がして、ナッツやシナモンの甘い香りが車から溢れ出した。

身をかがめて中を覗くと、運転席のシートを倒し、フロントに脚を無理やり伸ばしたジェニファーがいた。片手にラージサイズのフラペチーノ、膝の上にはファッション誌が開かれている。

「た、ただいま」
翠は少々面食らいながらも、助手席に座った。

「スターバックスは、どこでも美味しいわ」
ジェニファーが満足そうに言う。「それに、日本のファッション誌は、カワイイ」

雑誌をちらりと見ると、カワイイ系の十代向けファッション誌だった。

「さ、かえりましょ」
ジェニファーはシートを元に戻すと、ハンドルを握った。