男はある薬局の前にいた。
 真剣な表情で店舗を睨みつけたまま立ち、そのままの状態で既に数十分経過している。
 男は人生はじまって以来、最高点の緊張と興奮を感じていたのだ。
 この興奮に繋がる情報を偶然手にしたのは、先日のことである。
 まず情報を聞いて、彼は耳を疑った。
「それは本当か!」
 興奮して情報提供者の胸倉をつかみ、怒気を荒げ問いつめた。
「嘘じゃない。信用するなら放してくれ……証明するから」
 情報提供者は男の迫力に負けて、震えた声で答える。
 突然の暴力から解放された情報提供者は、その場で咳込み、苦し気な表情を浮かべた。情報提供者が折れずに、続きを語ろうとしなければ、絞め殺していたかもしれない。
 それだけ男の興奮は頂点に達していた。
 早くしろと言わんばかりの男を見て、情報提供者が懐から瓶を取り出す。
 瓶の中身は綺麗な赤い色をした液体だ。不気味でもあり、宝石のように煌めく美しい液体を、情報提供者は計量用の蓋に注ぐと、口に含んで一気に飲み干した。続けて霧吹きで、液体を全身に振り撒きはじめる。
 男は情報提供者に、厳しい視線を向けながら見守った。
 相手の言ったことが本当なら、信じ難い展開の目撃者となれるはずなのだ。
 男が見守りはじめてから数十分経過すると、情報提供者の体が透けはじめ、続けて手足が消えてくる。
 更に数分経った頃には、何処にいるのか全くわからなくなってしまった。
「どうだ? 俺が見えるか?」
 情報提供者の声はするのだが、姿は見えない。
 あまりの衝撃的な出来事に男が困惑していると、突然背中を押されて前に倒れこんだ。
 何もないはずの空間から、情報提供者の笑い声だけが響き渡る。
 信じていなかった奇蹟が間近で展開されている状況に、男は息を呑んだ。
 情報提供者が、男に伝えたこと――
 それは『透明人間になる薬』の入手方法であった。
「他言してはならない」それが、第一の注意事項であった。
「では、なぜ俺に話したんだ?」
 男がそう質問すると、情報提供者はこう答えた。
「薬はまだ研究段階で研究費が必要であるというのと、実験体が欲しいというのが理由だ。俺は資金を提供してくれる実験体を一人、紹介してくれないかと頼まれたのさ。君は研究員が指定した実験体の条件に合うし、株でも成功している。口が堅いというのも知っている。だから話したんだ」
 男は情報提供者とは長い付き合いで、幾らかの金を貸していた。返済を待ってほしいかわりの見返りと、情報提供者は語ったのだ。
 うまいこと話が進んだのが、男にとって幸いした。
 彼は在り来たりの人生に、嫌気がさしていたのだ。
 変わった人生はないか。他の人が体感したことがないような経験は。
 手元にあふれるような金があっても、物足りなさを感じる空虚感。そんな人生に別れを告げる瞬間が訪れたのである。
 薬を入手できる場所を聞いて目的の薬局に辿りついた男は、半信半疑で立っていた。
 外観は普通の薬局と変わりない。
 すると、出入口の扉を開けて三人の背広姿の男たちが、腰を抜かしたような体勢で逃げ出していくのが見えた。
「幽霊薬局店だー」
 妙な叫び声をあげた彼等は黒い車に乗りこむと、そのまま慌ただしく姿を消してしまった。
 しかし、その一部始終を見つめていた男は結論づけた。
 情報は真実であると――
 自分が透明になったらしたいことは、幽霊まがいの悪戯だからだ。何もしていないのに物が落ちる。家電製品が動き出す。音が鳴る。
 脅かした相手の顔を想像しただけで、笑いがこみ上げてくる。
 逃げ出した男たちは、そんな透明人間たちの悪戯の被害者と捉えたのだ。
 意を決した男は、薬局の手動ドアに手をかけ押した。
 まるで来店客を歓迎するかのように、思いのほか扉は軽く簡単に開く。
「いらっしゃいませ。新規の方ですか?」
 恰幅のいい責任者が声をかけてくると、男は更に緊張した。
 第一声を間違えてしまえば嫌われて、二度と透明人間になる薬を拝めなくなるかもしれない。
 絶対に手にしたい薬――手段はどうあれ、購入したかったのだ。