広大な敷地を囲む石壁、それを回りこんでようやく見つけた表門を潜って行くと、新緑あふれる竹林の合間に石畳が並んでいる。
 その石畳に一歩ずつ足をのせて進むと、年月を感じさせる瓦屋根の風格ある建物に辿り着く。
 建物の隣にある天空を突き抜けそうな大樹が、ただでさえ立派な建物を巨大な影で覆い尽くし、存在を隠しているようであった。
 庭園には苔むした大岩や鯉の泳ぐ池があり、時折鯉が跳ねる姿も見える。
 写真に撮って飾れる絵画のような日本庭園。そんな庭園を進んで、獅子脅しの音響を傍らに聞く。
 そんな立派な建物に一組の夫婦が訪れていた。
 ここは悩みのある者たちが訪れる、いわば駆けこみ寺である。
 寺内の空気は神聖さを表すように澄み切り、どことなく緊張した空気は夏だというのに暑さを感じさせない。
 夫婦が大部屋に入ってから、数十分は経過しただろうか。
 寺に到着して、妻のほうは泣き崩れて伏せたまま、隣の夫は深刻な表情のまま正座をして黙り続けていた。 
 一向に進展しない二人の様子を見て、寺の住職は何から話そうか困惑している。そんな状態が続いていたのだ。
「奥さんから話せそうにないので、旦那さんからまず話を聞きましょうか。どういった要件でここに?」
 何代も続く寺の住職。
 そんな肩書を聞いて納得できるような、低音でありながら慈愛を含んだ優しい口調で、住職はまず夫のほうに問いかけた。
 住職の質問に視線を落としていた夫が、ようやく顔を上げる。
 嗚咽し続ける妻をチラリと横目で見ると、夫は口を開いた。
「はい……実は一週間前の記憶がないのです。どうやら、その一週間の間、僕は自宅に戻っていなかったようで。意識がおぼろ気のまま帰宅すると、妻はこの調子で泣きやんでくれない。お願いだから、ここに一緒に行こうと誘われて来たのですが……おい、住職が困っているだろう!」
 妻の反応に痺れを切らしたのか、夫が大きな声で怒鳴る。
 気の小さい妻と、亭主関白な夫。二人は今時珍しい、昭和の夫婦といった感じであった。
 夫に見えるのは、仕事一辺倒の生真面目な男像。そんな夫が一週間も行方不明で連絡もなし。そして、記憶喪失となった状態で突然帰宅する。
 普通なら無事だったと歓喜するところが、この夫婦の溝は逆に深まってしまったらしい。
 連絡もなしに、一週間も留守をした。浮気と誤解されてしまったのだろう。
 そう夫は考えているのか、酷く落ちこんだ様子も見せていた。
「成程……あなたは一週間の記憶を取り戻したくて、ここに来たのですね」
 住職の質問に、夫が首を縦に振って答える。
 逆行催眠か何かで、冤罪を晴らせればと夫は考えたのだろう。
 夫の願いは住職にとっては専門外だったが、この悩みを解決するあてが彼には存在していた。
 そして、次に住職は言葉を選んで諭すように、号泣し顔を伏せている妻に話しかける。
「さて、今度はあなたの悩みも打ち明けてください。どうしたいのです?」
 住職の質問に高い奇声を上げて泣き叫んだ妻は、駄々をこねる子供のように首を横に振り、今まで以上に発言を拒んだ。
「おい、いい加減にしろよ!」
 激昂し立ちあがった夫の一喝で、妻は肩をびくつかせるとようやく重い口を開く。
「一週間前……私はあなたが帰ってこない理由を問いつめたの。そして……」
 それだけ言うと、再び妻は口を貝殻のように閉ざしてしまった。
 妻は顔面蒼白になって、全身を恐怖で震わせていた。
「まったく、一体何に怯えているんだ……」
 一週間前の記憶が鮮明でない夫は、困惑して動きをとめていた。
 彼は妻が告げた『そして……』の後の記憶が繋がらないので、ここに訪れていたのである。
 妻が唇から紡ぎだす謎の答えを、夫は待ち望んでいる様子であった。
 しかし、話の一部始終を聞いた住職は、既に事の全てを理解していた。
 部屋の隅から隅までをうろつき、落ち着かない夫に住職は視線をむける。
「旦那さん。彼女は隠していることを言えないようです。よろしければ退室していただけませんか? 私が責任をもって、奥さんから話をお聞きしますので……」
 これ以上の夫婦間の問答が無駄とわかった住職が、夫に願い出る。
 納得がいかない様子で、夫は襖を開けると廊下に出ていった。
 そして夫が離れたのを確実に確認した上で、住職は再度妻に話しかけた。
「理由はわかりました……どうやら相当深刻ですね。旦那さんの様子があれでは解決策は一つしかないですよ」
「わかっていたんです。こんなことをしても無駄だって……一週間前、彼の帰りが遅いのを問いつめてみたら、浮気をしてきたと逆に開き直られて。離婚しようとまで言われました。それで私……」
 手元に置いてあったカバンを差し出して、妻は再び涙声で住職に話を続けた。そのファスナーを開けて、慎重に何かを取り出す。
 出されたのは風呂敷に包まれた両掌大の物体。その風呂敷を取りさると、鮮血に染まった置物が姿を現した。
「かっとなって殴ってしまったんです。あの人を! その時は何が何だか覚えていなくて。気も動転していて、慌てて彼の遺体を山に捨てにいったんです。それが一週間後の昨日、突然戻ってきて――」
「あの様子だった……」
「恐ろしくなって遺体を確認しに行きました。あったんです。そこに彼の体が! 一週間前と変わらない状態で……住職様、お願いです。助けてください!」
 妻は全身を恐怖で震わせ、大粒の涙を流す。
 その懇願に住職は、鼻を軽く鳴らすと冷淡な視線をむけて答えた。
「まさか記憶をなくして霊魂として戻るとはね……自首すれば成仏してくれるかもしれませんが、保証はないですよ。もしその気がなくても、除霊なら承りましょう。但し金額は覚悟してください」