早朝、まだ薄暗い時刻――
 荷物を小脇に抱えて、マンションの玄関から男性と女性が愉快そうに笑いながら出てきた。
 女性は若さと美貌を持ち合わせたスタイルがいい美人。
 それに対照して男性は、女性との出会いも無縁そうな結婚適齢期もとうに過ぎている中年。そして、体格も良いとはいえない小太りであった。
 お世辞でも彼の外見は、見栄えがいいとはいえない。
 喩えるなら美女と野獣。他人から見たら、なぜ一緒にいるのか首を傾げてもおかしくない。そんな不釣り合いなカップルであった。
「ねえ。私、欲しい物があるの……エルメスの新作、買っていい?」
 笑いが途切れたのを見計らったかのように、女性は男性に話しかけると、妖艶な雰囲気を醸し出しながら指先で、男性の首元を優しく触った。
 女性のこの行動は今日ではじまったことではない。
 女性は欲しい物ができると、必ず男性の下心を巧みに誘って高額な品物をねだっていた。
 当然、男性も女性の思惑は理解しているのだが――
「君の頼みなら仕方ないなぁ。大切に使うと約束してくれるかい?」
 抑え切れない感情は、彼の理性を既に崩壊させていた。
 二人は見ての通りの関係だったのだ。
 男性は高学歴、地位も高い高収入の企業マン。
 女性は若さと魅力を武器にして、金を要求する売春婦。
 二人の間に愛などという感情はなく、自分の得しか考えない偽りの関係。
 男性は女性の美貌と若さ溢れる体目的、女性は男性の金銭目的。
 それだけが二人を繋げる、かりそめの絆であった。
 そんな二人が、早朝荷物を手にして出てきた理由は、婚前旅行をしようという話からはじまっていた。
「いいのー? 内緒で旅行なんかしたら、奥さん怒らない?」
「怒らないさ、もう離婚届を渡した。慰謝料も払うことにしている。今の僕には君しか考えられないんだ」
 いつものように男性をくすぐる、甘い口調と動作で聞く女性。
 その女性に男性は、はっきりと答えた。
 男性は妻と完全に縁を切り、この女性と結婚するつもりでいたのだ。
 親密な関係を持続させるためにも、何か行動を起こしたい。
 そう男性が考えていた矢先、ツアー広告が郵便受けに入っていた。
 広告には『選抜された方たちが参加可能です。料金は無料となっております』と書かれていた。
 大切な商談があったものの、男性は女性との関係を第一に取り、無理を言って上司から有休の許可をもらって、行動に踏み切った。
 何故かわからないが、絶対にこのツアーに行かなければならないという運命的な意思が生まれたのだ。
 すぐさま申し込みをすると、パンフレットが送られてきた。
 パンフレットには、『貸切バスにて、行き先は誰もが見たいと願う光の川、一面に広がる花畑。途中では車中にてお土産を渡します』とあった。
 男性は離婚届を渡した妻と、以前よくツアーに出掛けていた。
 行き先は不明だが、これはミステリーツアーだ。売りこみ文句もいい。期待できそうだ。
 男の胸は高鳴り、女性との甘い一時を想像する。
 そしてお互いが予定を合わせて休暇を取り、この日を迎えたのである。
 出発場所の公園前へと向かうのに、二人は僅かな時間しか感じなかった。
 待ちに待った旅行である。期待で胸躍っていたのだ。
 添乗員と運転手にお辞儀をして、二人は乗りこんだ。
 二人が席に腰をおろしたのを見計らったかのように、添乗員が行き先を記したパンフレットを女性に手渡す。
「何これ、みんな秘密なの? どこに行くかわからないじゃない……」
 そのパンフレットを見るなり女性が首を傾げ、困った表情を浮かべた。
 この瞬間こそ、男性が求めていた時であった。
「それがミステリーツアーの醍醐味さ。バスに揺られながら、行き先を予想するんだ。ほら紹介を見てごらん、それだけでワクワクするだろう」
 言いながら男性は激しい睡魔に襲われた。見ると隣の女性も虚ろ状態だ。
「旅行と考えて興奮したんだな、ちょっと睡眠不足みたいだ。少し寝るよ。君も眠いようなら体を休ませるといい。大丈夫、次に起きた時には目的地さ」
 男性は女性に言うと目を閉じた。他の乗客は異様なほど静かだ。熟睡できるに違いない。
 意識は少しずつ混濁していく。数分も経たないうちに男性は夢の中に入っていった。

 しばらくして、男性は肌を刺すような寒さを感じて目を開けた。
 隣を見れば、まだ眼を閉じている女性の姿がある。
 闇色に染まった窓越しに映る、女性の魅力的な横顔を見て男性は思わず生唾を飲みこんだ。
 この女があと数日で自分のものになるんだ。
 そう男性は考え、これからの欲望に満ちた生活を想像した。
 その時だ。
「それではお土産をお渡しします。しっかりと手元にお持ちください。そうでないと行き着けませんから」
 前置きもなく声を出した添乗員が、前の座席にいる人達から順番に、何かを配りはじめた。
 全員が大切に握り締めているのを見ると、食べ物ではなく品物のようだ。
 女性も辺りの騒ぎを感じ取ったのか、目を擦りつつ顔を上げる。
 その時、見覚えのある背中が見えて、男性は背筋に寒気を感じた。
 視線の先にいる人物は、まぎれもなく面識のある者――
 離婚届を突き渡した妻が、殺意を持った目でこちらを睨みつけていた。
 男性は急に恐ろしくなって慌てて姿を隠す。
 妻が参加しているツアーとわかっていれば来ていなかった。
 すると、恐怖で身も心も凍りついた男性に、添乗員が土産を手渡してきた。
 渡されたのは六枚の古銭……男性は意味がわからずに受け取った。
 女性も古銭を受け取り、男性に答えを聞こうと目を向ける。
 ただ、他のツアー客は皆、古銭を落とさないよう大切に握り締めている。
 そして、顔を上げると男性は悲鳴をあげかけた。
 いつの間にか前に妻が立っていて、男性と女性二人の顔を覗きこんでいたのだ。
 女性も驚き、震えた状態で声が出せない。
 息を呑む男性は驚きで硬直し動けないまま、前妻の顔を見つめ続けた。
 と、その顔をよく見て、男性は妻の様子が違うのがわかった。
 死人のように血の気がない。
 よく見ると首の周りに青く、一本線に鬱血した跡がある。
「何で捨てたの? 私はあなたに何十年も尽くしてきたじゃない……」
 妻の言葉を聞くなり男性は慌てて眼を逸らし、席を立って窓の外を見た。
 ところが、道がどこだかわからない。
 ただ淡い光の中、バスは川沿いを走っている。
 尋常ではない外の景色に混乱した男性は、
「お願いだ。おろしてくれ!」
 必死になって懇願した。
 女性も男性のもとに駆け寄って、恐怖で体を震わせている。
 ところが二人の要求は叶わないまま、バスの扉は固く閉ざされ、運転手や添乗員も前方を見つめたまま、少しも視線を向けなかった。
 どんなに男性が騒いでも、他の乗客すら無表情で窓の外を見ている。
 ゆっくりとバスは目的地の川に到着し、静かに停車すると扉を開いた。
 そして、添乗員は口を開けると、手招きをして客に下車を促す。
「それでは皆さん。目的地の三途の川です。六文銭はきちんと出してくださいね。善人と判断された方は橋を、罪の軽い悪人の方は川の浅瀬を、罪の重い悪人の方は川の深瀬を進んでください……それが、ここのルールですから」
 男性と女性が恐怖で引き攣り顔面蒼白のまま、顔を見合わせた。
 お互い、恐怖で死人のように血の気がなくなっている。
 自分達は、どこを進まなくてはいけないのだろうか。
 男性は妻が橋を進んでいく姿を、黙って見送るしかない。
 バスツアーのパンフレットには、行き先は誰もが見たいと願う光の川、一面に広がる花畑――と、大きく印刷されている。
 そして、それには、到着時間は記されてはいない。