暑さが高まる季節の夕刻。
 学校から貰った大きな笹を手にした少年が、全力疾走で通学路を駆け抜け、息を切らしながら帰宅していた。
 少年のもう片方の手には色紙で作成された飾り物と、細長く奇麗に切られた色とりどりの折り紙。
 毎年のことだが、梅雨真っ只中という時期が災いし、一年で一日だけの重大イベントは、いつも天気が冴えない。
 しかし、今年は珍しく気象庁が快晴と予想し、その通りの奇麗な青空が広がった。
 靴を脱ぎ捨て、ランドセルを玄関先に放り投げると、少年は慌ただしく二階の自室に駆けこもうとする。
 すると、夕食の準備で台所に立っていた母の視線が、少年に向けられた。
「ちゃんと片付けなさい。だらしないでしょ!」
 母の叱咤に少年は思わず足をとめたが、この反応は一瞬だった。
「だってお母さん、今日は七夕だよ! 晴れてるうちに飾らなきゃ、願いが叶わないじゃないか!」
 言い訳にしか聞こえない理由を告げて、少年は階段を駆けあがる。
 彼の願い事はいくつかあったのだが、本当に伝えたい願いは一つだけであった。
 一番好きな青色の短冊を取り出すと、迷わずその願いを書きこんだ。
 そして、二階のベランダの隅に笹を立てかけて、飾り物と短冊を手際よく吊るしていく。
 本当に叶って欲しい願いを書いた短冊は、笹の頂点に吊るした。
 一通り作業を終えると、少年は今日渡された宿題に取りかかる。
 全て終えた頃には、陽がすっかり落ちて暗くなっていた。
 少年は窓を開けると、満天に広がり競い合うように煌いている星たちを、飽きることなくしばらく眺め続けた。
 今日は絶対に願いが叶う日なんだ。
 そう錯覚してもおかしくはない。美しい星空であった。
 その時、帰宅した父が扉を開けて、少年の様子を伺いにきた。
 気づいた少年は窓から離れると、笹を部屋に入れて父に見せる。
「お帰りなさい。お父さん、見て! 願い事を書いたんだ!」
『いなくなったムクが、帰ってきますように』
 頂点に飾った青の短冊には、こう書いてあった。
 その願い事を見た父が、少し驚いた様子を見せて口を開く。
「お前、まだムクのことを諦めていないのか? もう随分経つんだ。いい加減、諦めなさい」
 ムクとは飼い犬で物心ついた時から傍らにいた、少年にとってはまるで兄弟のような存在であった。
 冬の雨の中、河原に捨てられていた子犬を少年は見つけて拾ってきた。
 丸くて毛が柔らかいからという理由で、名前を『ムク』とつけたのだ。
 少年は絶対に最後まで世話をするからと母に約束して、散歩も餌も一日二回、忘れることなく責任もって続けた。
 寝る時も遊びに出かける時も常に一緒で、一時も離れずに過ごした。
 一人っ子である少年にとって、ムクは飼い犬などではなく家族だったのだ。
 それが真夏のある日、突然首輪ごと姿を消して行方不明となってしまった。
 夕方時に発生した豪雨と落雷、それに驚いて逃げてしまったのだろう。
 警察署や保健所、心当たりのある場所全てを捜し回っても、足取りすらつかめなかった。
 それから二年経った今でも、ムクの面影と温もり、思い出は少年の脳裏にしっかりと刻みこまれていた。
 忘れろと言われても、忘れられるようなことではない。
 お父さんはムクのことを可愛がっていなかったから、そんなことが言えるんだ。
 少年は部屋を出て行った父親の背中を見て、そう思っていた。
 気を取り直して、笹をもう一度ベランダに置くと、天の川を見つめる。
 ムクが生きているなら同じ星空を見つめているに違いないと考え、少年は手を合わせた。
『いなくなったムクが、帰ってきますように』
 幾度、天の川に願いを伝えただろうか。
 少年は散らばる星の数と比較しても負けないほど祈った。
 数十秒……数十分……一時間と。
 ムクを思う祈りで、時間が経過するのは苦ではなかったのだ。
 ただムクが戻ってきてほしい。それだけの純粋な願いである。
 その一心だけが、少年に時間を忘れさせた。
 どれくらいの時間が経過したであろうか。
「……ワン!」
 闇の中消えいりそうな声だが、犬の吠え声がした。
「ワン! ワン!」
 今度ははっきり少年の耳にとどいていた。
 慌てて少年はベランダから顔を出す。声の根源に目を向けると、見覚えのある白い姿が見えた。
 願いが叶ったんだ。ムクが戻ってきた!
 階段を駆けおりて家を飛び出すと、確かに本物のムクが甘えた声を出して少年に駆け寄ってきた。
 一体、どこを駆け回っていたのだろうか。
 首輪が食いこんでいて、血が滲み出ている。
 体も泥だらけで、食べ物も口にしていなかったのか、痩せこけていた。そんな姿を見て、少年は思わず涙を流してムクを強く抱き寄せた。
 丸くて毛が柔らかいからムク。そんな名前の意味を感じさせないほど、衰弱して戻ってきたのだ。二年間の空白を埋めるため、少年はもう離さないと誓った。
 しかし、少年はムクの体が普通ではないことに気づいていた。
 氷のように冷たい体。ムクから、体温を感じられないのだ。
 更に、ムクは一点を睨みつけると豹変して、怒号を出しはじめた。
 ムクの視線の先には、騒ぎを聞いて飛び出してきた少年の父がいた。
 そして父は呆然と立ち尽くしたまま、全身を震わせはじめる。
「まさか……帰ってくるなんて。戻ってこれないよう、念入りに縛りつけてきたのに」
 父の言葉に少年は愕然とした。
 ムクを抱きしめていた両手の力が一気に抜ける。
 その瞬間、突然、凶暴になったムクは飛びかかると、衝撃で倒れこんだ父に覆い被さった。
 更に鼻筋に皺を寄せ、殺意を持ったように牙を立てて襲いかかる。
 少年の眼前でムクと父の、攻防戦が繰り広げられていた。
 父の渾身の力をこめた拳打を、ムクは避けることなく受け続ける。
 しかし、父に突き立てた牙をムクははずさなかった。
 まるで痛みを感じていない、そんな風に見えた。
「待ってくれムク! 置き去りにしたのには理由が!」
 どんなに父が謝罪しても、暴行を加えても、ムクの攻撃はとまらない。
 同じ苦しみを父が知るその時まで。
 尊い命を失った彼の怒りが、この星空のように晴れ渡る時まで。
 七夕の願いは、少年の純粋な気持ちに応えてくれたのだ。
『ムクが返ってきてほしい』
 無理やり連れ出し、置き去りにしてきた父の意思に反して――

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あなたは願いが必ず叶うのなら、短冊に何と書きますか?
くれぐれも願い事は慎重に。