男は暗闇の中、歩き続けていた。目的地など決まっていない。目の前は目標物すらないのだから――
 すると、淡い光が見えたと思った途端、一人の女性が現れて、魅力的な瞳で男を見つめてきた。
 ここは現実の世界ではない。誰もが意識なく潜りこむことが可能な非現実の世界である。
 ――ああ、またこの夢か。君は一体誰なんだい?
 突然、現れた正体不明の女性を男は見つめ返すと、言葉にならない質問をする。
 男は意識なく、この夢の世界に進入してはいなかった。
 これは夢だとはっきりわかっていて、冷静に状況も判断できるし、考えることも出来るのだ。
 まず、床に入って目を閉じると、心地よい浮遊感に襲われる。
 そして、浮遊感に導かれるままに進んでいくと、必ず視界の先に淡い光が出現して、正体不明の女性が現れるのだ。
 しかし、いくら問いかけても彼女は笑顔を浮かべるだけで、言葉を返してくることはない。いつも一方通行の会話で終わってしまっていた。
 毎晩、夢の中に必ず現れる正体不明の女性。
 男はこの世界で、女性を見つめることしかできないことに戸惑っていた。
 仕事に全身全霊を懸け、結婚や恋愛にも興味を持たずに二十代を過ぎ、三十も過ぎて、ついに三十半ばにまで差しかかった。
 結婚適齢期を過ぎても焦りがないとは言えば、それはたぶん嘘になる。女性に興味を持たれるのは若いうちだけだろうし、家族もない独身の一生も寂しすぎる。不健康になった時、本当に頼れるのは妻であり子供たち。
 一家の主として重責を背負うのは楽ではないだろうが、頼られるのも悪くはない。
 ここ数年で、男の恋愛感覚は大きく変化していた。
 それにしても君は誰なんだい? なぜ毎夜、僕の夢に現れる?
 状況を一変させようと再度、質問しても女性の反応は変わらない。
 応えるように、彼女は先程以上の明るい表情で微笑むだけである。
 そんな経験をしたことがないので、何をしていいかわからないまま進展せず、男は今日(こんにち)まで至っていた。
 結婚に焦るあまり、変な欲望にかられてしまったのだろうか?
 そう考えていると目覚まし時計が鳴り騒ぎ、まだ重い頭を男は起こした。
 また、夢を見たまま朝を迎えてしまった。僕はどうしたというのだろう? これは異常なんじゃないか?
 男は、まだ意識が朦朧とした状態で部屋を出て階段をおりる。
 すると、一階の台所で食事中の教授と目が合った。
 教授と知り合い、助手として働きはじめてから今日に至るまで、ともに屋根の下で過ごし、研究に熱中してきていた。絶対的な信頼を獲得し、居候として一室を借りて一日中、仕事に没頭する。
 研究室にこもる生活。一般の者なら、趣味もなく遊びもしない。そんな人生を笑うかもしれないだろう。
 しかし、男はこの仕事に生き甲斐を感じ、教授に従い続けてきた。
 毎夜、夢に同じ女性が現れることを、相談したら誤解され笑われるだろうか?
 男は思案しながらも、朝食に手をつけようと席に着く。
 すると、教授のほうから男に目を向け質問してきた。
「どうしたんだね? 顔色が悪いぞ……何か悩み事があるのか?」
 やはり隠し通すことはできない。
 長い付き合いで毎日、顔を合わせているのだから察するのも当然だろう。隠し通すことは無駄だと感じ、男は正直に教授に相談することにした。
「その……最近、同じ夢を見続けているんです。女性が現れて見つめられるだけなのですが」
「好きな女性ができたか? 君も隅に置けないな」
 からかい半分で教授は言ったのだろう。が、しかし案の定、男が予想していた通り誤解されていた。
「確かに気にはなりますが。別に好きだというわけでは……」
 男は誤解を解こうと慌てて否定するが、次の言葉が見つからない。
 自分でもわかっていた。明らかに動揺していると。
 非現実の夢に現れる正体不明の女性に、馬鹿だと笑われるかもしれないが恋をしたことに男は今、気づいた。
 教授は男の姿を見ると、顎下の不精髭を触りながら立ち上がり、毎朝恒例のコーヒーを手渡す。
 黙ってコーヒーを受け取った男を見つめながら、教授は困ったような顔をしつつ席に着いた。
「まあ、それを飲んで気分を落ち着けたまえ……さて、どこから話そうか? その女性との面識はないのか?」
「全くないんです。意識を失うほど酒を飲んだ覚えもないし、週刊誌にも目はあまり通さない……どこかの有名人ではないかと調べましたが、該当する人物もいない。訳がわからない。気がおかしくなりそうだ!」
 男は困惑し自らの記憶を打ち消そうと頭を抱えるが、無駄な行動だというのは、百も承知していた。
「しかし、彼女を嫌いというわけではないのだろう? 好きになってしまった。だから苦しいんじゃないのか?」
 教授の言葉に隠さず正直に、男は首を縦に振り答えた。
 そして、テーブルに置いていたコーヒーを手に取ると、息継ぎすることなく一気に飲み干す。
 正体不明の女性の出現――その緊張のせいか男は昨晩、食事をしていなかった。
 胃内が空っぽの状態であった。食道を通って流れこんでいくのが、男にははっきりとわかった。
 この行動の一部始終を見届け続けた教授が、息を吐いてから口を開く。
「今日は休んだほうがいい。きっと疲労から妙な夢を見るようになったのだろう。なに、明日の論文は私が纏めておくよ。君は安心して休むといい」
「申し訳ありません……教授と研究に没頭して十数年。こんなことになるなんて……」
 恥ずかしいことと感じたが、男は教授の意見に賛成し、その言葉に甘えることにした。
 食事を軽くすませて席を立つ。
 寝ると、またあの夢を見てしまうのだろうか?
 不安はあったが、正直な気持ちに気づいた今、男は女性に会えるのを逆に楽しみにしていた。
 二階に上がり布団に潜りこむ。夢の中で女性と関係が進展するのもいいかもしれない。
 女性との出会いと好奇心にかられ、先程コーヒーを飲んだのにも拘らず、男は睡眠薬を手にして一気に服用した。
 男の意識は徐々に薄れ混濁していった。
 そして、いつものように闇の中、淡い光が出現して――
    
 そんな二階で熟睡しはじめた助手を確認すると、教授は電話を取り目的の相手にかけていた。
 教授の電話相手は、弁論仲間である博士。
 彼との付き合いは長く、大学の頃からの親友であった。
「どうだい進行状況は?」
 博士の興奮に満ちた声が、受話器から漏れてくる。同じように対応している教授の声も弾んでいた。
「大成功だ。人間は理性があるから惚れ薬は効かない。間接的に好きにさせるしか方法はないという君の持論は、これで決定づけられた。毎朝のコーヒーに試験薬を入れて、彼に飲ませ続けた。服用をはじめて、二週間で惚れたと告白してくれている。女性に興味も持たなかった彼がだよ! 効果が認められたんだ」
 教授の声に満足した博士が、話を合わせてこう続けたのだった。
「よし、では最終段階だな。彼と夢に出てもらった、私の孫を会わせてみよう。結果がどうなるか楽しみだ。さて、これから薬の販売先と報酬分配について話そうか」

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人間には理性があるため、惚れ薬が効かないといわれているそうです。
さて、あなたは毎夜出てくる異性相手に、恋が芽生えると思いますか?