――ねえ、あの噂を聞いたことある?
 決まった日時にある場所で指示通りにすると、正反対の自分に生まれ変われるっていう話を。
 成績不振なら優秀に、不健康なら健康に、運動音痴なら運動神経抜群に。
 優れていて幸運なら必要もない噂だけど、劣等者で不幸なら実行した途端に天国。
 人生を悲観した人は、みんな試しているっていうよ。
 結果は聞いたことがないから、本当に噂だけかもしれないけどね。

 成績不振。両親の不仲。取り柄も夢中になれる趣味もない。
 そんな私の耳に偶然通じた、友人からの些細な噂話。
 本当に試してみる価値があると思ったのは、学校から帰宅した後。母に授業参観の通知を見せようと、台所にむかった時だった。
 仕事でいないはずの父が帰宅していて、母に拳を向け怒号を発していた。鬼のような形相で激昂する父。怒りで顔を紅潮させて反論する母。
 それを見て恐ろしくなり、通知も見せられないまま二階に駆けあがった。
 自室に入って扉を固く閉めると、ベッドに寝転がり布団を頭からかぶった。
 こうすれば、両親の口喧嘩を聞かずにすむ。
 とにかくこんな最悪の現実から、逃げられるものなら逃げ出したかった。
 言い争いの原因は知っている。
 父の浮気と、それを理由に離婚を迫る母。二人の信頼関係の崩壊だ。
 温厚で愛妻家と近所で評判だった父が豹変した理由は、父が勤めている会社に数年前に入社してきた女性が原因らしかった。
 出来損ないと上司から罵られた新入社員の女性に、世話好きの父が仕事を教え、打ち明けられた悩みの相談も親身になって聞く。
 若くて魅力あふれる新入社員の女性と、結婚倦怠期に入った男である父。二人の関係が親密になるのに、大した時間はかからなかったようだった。
 途端に父の帰宅時間が深夜となって、体から香水の匂いが漂いはじめた。
 それに勘づかない訳がない。当然、母は父の浮気を疑った。母は探偵に依頼して、父が浮気をしているか調査させたのだ。
 そしてその結果、父の浮気は事実とわかった。
 全てを知られた父の言い分は――
『探偵に依頼するなんて不当だ! 家庭に問題は起こしていないだろう』
 全てを知った母の言い分は――
『離婚原因はあなた。慰謝料は払ってもらうし、離婚届にも判を押して』
 ぶつかり合う父と母の言い分は解決ではなく、逆に互いの溝を深めた。家庭環境は劣悪となり、一家断裂も時間の問題となってしまったのだ。
 その悩みから私は自宅でも塾でも勉学に集中できなくなり、それが原因で成績は急落した。
 更に最悪なことに、第一志望だけでなく第二志望高校の合格すらも絶望的という現実に立たされてしまったのだ。運動音痴で特技もない私に、推薦という道などありはしない。
 劣等者で不幸なら、途端に天国。
 私にとってこれ以外の逃げ道はなく、噂でもいいから縋りつきたかった。
 友達から教わった方法を記したメモを取り出し、噂の真相に賭けて、その日、指示通りの行動実行を決めた。
 メモを確認して、暗記するほど読み返す。
『行動は陰暦の三日。三日月の夜三時三十三分三十三秒。三面鏡の前で三回手を叩く』
 それが友達から聞いた決まった日時、ある場所で指定通りにする行動、正反対の自分に生まれ変われるという噂の方法だった。
 三面鏡は母が祖母から譲り受けた遺品があり、父と母の寝室にはない。
 何より今日は三日月の夜だ。
 今日を逃せば、次にはあの幸せだった家族も離れているかもしれない。私は授業参観の通知を握り締め、布団に潜ったまま時間が経つのを待った。
 両親の声は扉を固く閉めても漏れて、耳に届いてきた。
 一家団欒で仲良く笑い語り合い、囲んできた食卓はもう戻ってこない。両親の言い争いに怯えて、一人寂しく口にする食事などもうたくさんだ。
 幸せだった日々を思い出すたび、涙は枯れることなく流れ出る。
 その夜も同じで過ごしてきた日々を思い出し、涙で枕は濡れた。
 そして布団を被ったまま起きてこない私を心配して、母か父が来てくれるのを期待したが、その時は訪れないまま時間だけが過ぎていった。

 時間が経つのがいつもより遅く感じた。
 現在時刻深夜三時三十分。
 静まりかえった世界。窓から漏れてくる光も車の走行音もない。この時間になると、さすがに両親も熟睡中だ。
 両親が起きないよう自室から抜け出すと、二人の様子をうかがった。
 数年前までは同じ寝室で就寝していた二人も、今では違う部屋でふすまを隔てて、背中を向き合わせている。
 時間の余裕を持って三面鏡の前に正座すると、正確な時刻で手を叩くのを準備し、時が訪れる瞬間を待った。
 時報で合わせた時計が、深夜三時三十三分三十三秒を示す。
 意を決して、両親に気づかれないように三回手を叩いた。寒い室内に、かわいた三回の手叩きが響く。
 ――が変化の様子はない。
 やっぱり嘘だったか。深夜だから本当かどうか確かめようにも方法がないし、信じた自分が馬鹿だった。
 正反対の自分になれなかったことを失望し、自室に戻って布団を被る。
 かといって望みを捨てた訳ではない。
 明日が正反対の人生に変わっていることを強く願って眠った。

「朝よ! 早くおりてきなさい」
 朝は思いのほか早くきた。
 起こしにきてくれた母の声で、ようやく目が覚めて布団を出る。
 一度鳴った目覚ましを切って、二度寝してしまっていた。
 と、そこではじめて起こしに来てくれた母の顔に、数年ぶりの笑顔が戻っていることに気づいた。
 まさか、噂って本当だった?
 まだ信じられずに、重い瞼を擦りながら階段をおりて台所にむかう。
 すると数年前から無縁だった、トーストを焼いた香りが漂ってきた。
 と、いうことは、正反対なら。
 慌てて駆けこんだ台所には、新聞を広げて食卓に座る父の姿があった。
「おはよう。珍しいな。呼ばれてすぐに起きてくるなんて……」
 昔のように温厚な父を見て、思わず胸が熱くなり涙を流しかける。
 あの辛かった日々はもうない。家族全員で過ごす幸せな毎日がこれからも続くのだ。噂通りなら成績も優秀になっているし、運動神経だって抜群だ。
 これからはもっと有意義な毎日を過ごしていける。
 そう、私は何の苦労もなく、皆が必死になって手にする幸福を手に入れたんだ。言いようもない恍惚感が全身を駆け巡っているように気がした。
 その瞬間、目の前の景色が暗転して、私はその場に膝をついてしまった。
 物凄く気分が悪い。体が重い。全身が焼けるように熱い。噎せるような息苦しさも感じる。身体を起こすのが精一杯で立つことも出来なかった。
「ほら、 無理して起きるから。あなた、自分の体をわかっているの?」
 駆け寄ってきた母に抱き起こされて、自分の身に何が起きたのか直感した。噂話の一部分を思い出した。
『指示通りに行動をすると、正反対の自分として生まれ変われるっていう話を……』
『不健康なら健康に――』
 そうだ……体だけは丈夫だった私が、不健康になってしまっている。
 こんなの嫌だ!
 不幸である以前に、私は大切なことを忘れていたのだ。
「言ったじゃないか。残酷だが、お前の余命はあと数か月なんだ。少しでも安静にしないと」
 父の言葉に私は愕然とし、現実を見失いかけた。
 そして、顔をあげるとテレビ画像と、父が読む新聞の活字が視界に飛びこんできた。
 思わず言葉を失った。目を疑う現実が、そこにあった。テレビ、新聞の文字が全て鏡文字のように、逆に映り印刷されている。
 気づけば利き手が右のはずの父が、左手で食事をしていた。
 三面鏡の前で手を叩く。私は正反対の鏡の世界に、紛れこんでしまったのだ。
 勉強も運動も頑張ればなんとかなる! だけど健康は――
 どうにもならない現実を前に、私は本当の絶望を知った。
 気配を感じて振り返ると、三面鏡に映る自分と視線があった。
 鏡の中の私は恐ろしいほど冷酷な目で、唇を歪ませながら笑っていた。
『戻ろうとしても無理よ。私はこっちの世界で努力して優等生になって、運動神経抜群な健康体で生き続けるの……』
 入れ替わった鏡の中の私が、はっきりと私に語りかけていた。