「行く気か? とめても無駄だろうが、危険だ。俺たちはОを知らないが、Оは俺たちを知っている可能性がある。谷分の家に出入りした瞬間を見られたとも限らない」
 貫野の言うことに間違いはない。冷静な判断だ。誰だかわからないОの姿を追い続ける。それは返り討ちにあう危険もはらんでいた。
 十一朗は目を閉じて深呼吸した。胸に秘めた想いを整頓する。そして目を開いた。
「貫野さん。Оが操作したパソコンの通信元を伝えるのは、もう少し待ってくれないか? 警察に頼むなんて馬鹿だと思われるかも知れないけど、犯人を自首させたいんだ。久保の事件の後、自殺屋事件は起きていない。あれほど執拗に公開自殺を行っていた自殺屋が、久保の死に、何故、涙したのか。谷分と日野、あとОには何か謎がある気がしてならないんだ」
 無理な注文だった。警察に犯人逮捕を待ってくれと言うなど馬鹿な話だ。父が刑事部長であるからこそ、十一朗は痛いほどわかっていた。
 それでも考えは変わらなかった。自殺屋に自首を勧めた久保の想い――。
 谷分と日野が経験したであろう暴力にまみれた、生きるよりもつらい現実の生活――。
 そしてОの涙――。
 自殺屋逮捕の瞬間、その全てが壊れるような気がした。公開自殺に行き着き、それを繰り返した自殺屋の目的、真実が知りたい。
「そういう時だけ、貫野さんかよ……」
 電話向こうの貫野の吐息が聞こえた。そして小さな声が聞こえた。「仕方ねぇ……」
「たかが数人の犯人を検挙できなくっても、文句は言われねえだろ……但し、約束しろ。お前がつかんだ情報は全て俺達たちに話すことだ。こいつは取引なんだからな」
 捜査段階に入った時に交わした貫野との約束。その取引は継続されている。
「それと深追いはするな。お前に言う必要はないと思うが、証拠と動機を叩きつけなければ、開き直られて終わりだ」
「わかってる。貫野さんもくるんだろ? 先に行って待ってるよ。それと、何かあったらこっちからも連絡する」
 貫野たちも場所を知っている。他の者に行き先を教えなくても、くるのは確実だ。
「たりめーだろ。お前の監視を刑事部長に頼まれてんだからな……それと、携帯持て。女の名前が登録されてあると、変に干渉されそうで嫌なんだよ」
 十一朗は笑ってしまった。適齢期ぎりぎりの男が抱える悩みのひとつであろう。
「大丈夫だよ。裕貴なんて名前、普通の人が見たら『ヒロタカ』って読むし。訊かれてもそう答えればいいだろ……」
 十一朗の助言に、貫野は「そうか……ヒロタカとも読めるな」と納得した。
「じゃあ、切るよ……それと貫野さん、いろいろとありがとう」
 電話を切った十一朗は、裕貴に携帯を返した。
 途中だったメールの転送作業を裕貴がはじめる。転送先は二つ。ミス研兼用のパソコンとワックスの携帯だ。無事に転送されたか確認を取る。
 操作のわからない十一朗は、先程まで纏めていたノートに目を通した。ざっと見てから貫野に教わったネット喫茶に向かうつもりだった。しかし――。
「裕貴、普通は左手ではメールを打たないんだよな?」
 十一朗の中でひとつの謎が繋がりかけた。それを知らずに裕貴は目を丸くする。
「大丈夫? もう、何度も確認しないでよ。普通は利き手の親指」
「さっきの犯人が送信してきたメール、もう一度確認させてくれないか」
 裕貴は不服そうに頬を膨らませた。もう二度と見たくないと言っていたのだから当然だ。
「そこのパソコンに転送したから見てよ……」
「今すぐだよ!」
 十一朗は叫んだ。引けない事実があった。すぐに確認したかったのだ。
「一瞬だけでもいい。あと一回だけだ! そうしたら消してもいいから」
 退くほど困惑した素振りを見せた裕貴は、十一朗の勢いに負けて携帯を見せた。

【裕貴ちゃん。今までありがとう……みんなにもよろしく言っておいて】

 ワックスも覗きこんだ。そしてワックスも気づいたようだった。
「これ三点リーダーあっちと違うよな……パソコンの遺書と携帯の遺書、文体もまるで違うぞ」
 パソコンの遺書は、

【御免なさい・・・疲れました。疲れたので死にます。さようなら】

 携帯の遺書は親友だけに対して当てたものであり、パソコンの遺書は私情がほとんどだ。これも大きな違いだ。それは、二つの心があることを意味していた。
 十一朗は拳を握り締めた。今まで語ってきた内容全てで、ひとつの推測が見えた。
「そういうことか。こんな大切なこと、何で俺は気づかなかったんだ……」
 十一朗が語ると、裕貴とワックスは同時に振り返った。
「裕貴……俺、Оがなんとなく誰だかわかった気がする」
 裕貴の唇は震えていた。
「誰? 京子を殺した人って?」
 十一朗はかぶりを振った。ここでは何も言えなかった。久保の最後の言葉を思い出した。
『とにかく、ここじゃあ言えないの。明日なら話せるし、それに人が多いほうがいい……』
 推理が結末に達した時である今だからこそ、久保の気持ちが痛いほどわかった。
「今は言えないよ。俺の中にあるのは推測であって結論じゃない。動機も証拠も繋がっていないんだ。だからそれを確かめに行く。久保が達し切れなかった事件を解決するんだ」
 十一朗は空を見た。集中しなければいけなかった。
 相手は久保を殺した自殺屋だ。自分の判断が間違えば、どう転ぶかわからない。しかも、警察に犯人の名前と推理を教えることもできない。
 そうすることで犯人に捜査の手が及び、自首させることができなくなってしまう。
「久保は自殺屋に自首を勧めた。俺もそうしてやることが、久保へのはなむけになる。それに殺されるわけにもいかない。そうなったら本当の解決ができないまま終わりだ」
 自殺屋をどうやって説得するのかという、重圧が十一朗に襲いかかる。久保も同じ怖さの中で命を絶ったのだ。異常に乾いた口内を感じていた。
「私も行くよ。今まで一緒に行動してきたんだもん。置いてくなんて言わないよね?」
 裕貴が言ったと同時に、ワックスも立ちあがった。
「俺もついてくよ。いいだろ? 久保が殺された理由をどうしても知りたいんだ」
 十一朗は首を縦に振った。そして、全員で手を合わせて解決を誓った。