「久保!」
 声を上げた十一朗は倒れている椅子を立ち上がらせると、久保の両足を乗せた。
 しかしこれだけでは、久保を縄から解放することは無理だ。縄を切らなければいけない。
 久保は物干し竿をタンスと窓枠で橋渡しにし、それに縄を掛けて輪をつくり、首を吊っていた。縄の位置が高いため、ただ背伸びしただけでは届かない。
 学習机の上に、はさみを見つけた十一朗は、それを手にすると、椅子を踏み台にして腕を伸ばした。はさみを開いて縄を挟みこむ。思った以上に固い。体勢も不安定なのでうまくいかない。苦闘した。
「切れろ。切れてくれ」
 縄は切れるというより、繊維を断ち切るように一本一本ちぎれていく。縄が紐ほどの太さになった時、背後から悲鳴があがった。
 くるな――そう告げておいてきた裕貴が、心配して部屋に入ってきたのだ。
「裕貴、一一九番に電話。はやくしろ」
 十一朗は振り返らずに叫ぶと、縄を切る作業に集中した。なかなか切れない。一分一秒が、一中劫もの無限の時間に感じた。
 裕貴が電話越しの相手に「救急です」と答えた瞬間に、縄は切れた。
 縄から解放された久保の全体重が十一朗に襲いかかってくる。椅子の上に立った状態の十一朗は、支えきれずに久保と椅子ごと引っくり返った。派手な転倒音が轟音になって、室内を揺らしたようだった。
 後頭部を思い切り打ちつけた十一朗は一瞬、昏倒仕掛けたが、
「大丈夫?」と叫んだ裕貴の声で、辛うじて意識を取り戻した。
 覆い被さる久保の体を慎重にどかして、十一朗は体を起こす。怪我をしたのだろうか。久保をつかんだ時に、湿ったような感触があった。しかし、血は流れていなかった。
 興奮してアドレナリンが大量に分泌されたのだろう。全身を激しく打ちつけているはずだが、全く痛みを感じない。
 無事に起き上がった十一朗を見て、裕貴は電話応対を続けていた。
「住所って言われても」と返答する声が響く。
 一一九番をすれば、まず救急か消防か質問される。答えると次に問われるのは現場の住所だ。
 通報しているほうは興奮状態にあるから、訊かれてもすぐに住所は答えられない。苦心する裕貴が持つ携帯を「こっちに」と言って受け取った十一朗は、即座に住所を答えた。
 久保の年賀状に書いた住所。パソコンではなく直筆で書いたので、はっきりと記憶していた。次に電話越しの女性が、患者がどのような状態なのかと問いかけてくる。
 十一朗は裕貴に「頼む」と言って電話を渡して、後を引き取らせた。