夢開く大輪の花

絵摩ちゃんと聖羅ちゃんが去って行った後、あたしは一人、校門に向かった。
待ち合わせ場所を決めていたわけじゃない。
まだ、学校にいるかもわからない。
でも、あたしは、そこに行けば、相良くんに会えるような気がしていた。
一人歩くと、桜の木があるあの場所にたどり着く。
あたしがかつて約束を果たした、桜の元に行き、足を止める。
見上げると、もう花はとうに散ってしまったその木は、寂しげな表情をたたえていた。
ーまた来年、花をつけるからねー
そんな呼びかけが、聞こえてきそうだった。
そっと目を閉じて、風の音に耳を傾けてみる。
サワサワと、心地の良い、生暖かい風が、あたしをかすめていった。
「よお」
背後から声をかけられ、ビクッとして振り返る。
やはり、そこに立っていたのは、相良くんだった。
「やっぱりここにいたか。つか、その驚きよう、なんとかなんねーの?まあ、条件反射なんだろーけど」
彼は、そんな口調でも、決して怒っている様子ではなかった。
「ごめんなさ…って、なんでここだって……?」
校門のすぐ側な事は事実だが、この木はさほど目立つ位置にはなく、他の木に埋もれているため、なかなか見つけづらいのだ。
それを、彼は、いとも簡単に見つけてしまっていた。
しかも、やっぱり、って、どういう事だろう…?
「お前さ、入試の日、この木の前で立ち止まってたろ」
「…えっ?」
「何か変な女いるなぁと思って。ま、今みたいな格好はしてなかったけどな」
「…気付いてたの?」
「黒髪ストレート後ろで束ねて、メガネだもんなぁ。でも、一人だけ南中の制服だったからな。自己紹介の時、ピンときた」
でも……、相良くんは、あの日遅刻してきて、あたしの自己紹介は、途中から聞いたはずで…。
出身校なんて、言ってしまった後だったと思うんだけど……。
そんな疑問を口にするより先に、
「ほら、行くぞ」
相良くんは、先を歩いて行ってしまった。
「ま、待って……」
「早く来いよ、ノロマ」
そう言って、彼はあたしに屈託のない笑顔を浮かべた。
その笑顔に、不本意にも、ときめいてしまった自分がいた。
口は悪いけれど、人間的には悪い人じゃない。
あたしが出会った事のないタイプの男子だった。
だから、キラキラして見えたのだろうか。
中学の時の、ガラの悪い連中とは、訳が違う。
どことなく、品も持ち合わせていた。
不思議な人だな……。
そして、謎が多い人。
なんだろう…。彼には、人を惹き付ける魅力がある。
顔も、ハーフのように整っている。
ファンクラブがあるのも、頷ける。
こんな所を見られようものなら、きっと大騒ぎになるだろうな…。
あたしのそんな心配をよそに、彼はどんどん歩いて行く。
あたしは、小走りにそんな彼の後を追う。
ひょっとして、わざと、前を歩いてくれてるのかな…?
こころなしか、彼が、そうする事で、あたしに合わせてくれているような、気がしていた。
「ねえ、相良くん」
「ん?」
「どこに向かってるの?」
明らかに、あたしが使う駅の方ではない。
この辺の地理は、土地勘もないため、よくわからない。
置いて行かれたら、迷子になってしまう…!
漠然とした不安が、あたしの脳裏をよぎった。
「着いてからのお楽しみ」
「お楽しみって……」
「怪しいトコに連れ込むとでも思ってんの?」
「え?あ、怪しい……?」
あたふたして答えるあたしをからかうように、彼は笑いながら言った。
「ま、安全が保証されてるトコでもねーけどな」
「………!」
ますます不安になってきた…。
でも、決めたからには、付いて行くしかない。
あたしは覚悟を決め、彼の後を追った。

程なくして、相良くんが、一件の豪邸の前で立ち止まった。
学校から、歩いてまだ10分も経っていない。
「着いたぜ」
彼が、あたしを振り返って言う。
「え……?ここ…どこ…?」
ずっと小走りに付いてきてたせいで、息はかなり上がり、ゼイゼイ息を切らしながら、あたしは尋ねた。
ま、まさか……!
一抹の不安が、あたしの脳裏をよぎった。
「オレん家」
あたしは、唖然として、その豪邸を見上げた。
周囲に建っている住宅も立派だが、この家は郡を抜いている。
しっかりと周りを塀に囲われ、家一軒分はあるのではないかと思われる庭を所有している。
その辺りでは、一際目を引く家だった。
まさか、とは思っていたが、本当に彼の家だったとは…。
あたしが面食らっている間に、相良くんはスタスタと門をくぐり中に入って行った。
あたしは慌てて、その後を追う。
「相良くん!ちょっと…」
「入るのか入らねぇのかハッキリしろよ」
少し悪戯っぽい笑みが、あたしを惑わせる。
意を決してあたしは、その中に入る決意をした。

玄関には、鹿の剥製の首。
高級そうな骨董品類が並び、足元には熊の毛皮のマット。
さすがは、医者の息子だ。
中を見渡してみても、一際目を引く螺旋階段があり、中の絨毯は真っ赤。
両端に扉がいくつかある。
「失礼します……」
あたしは、恐る恐る靴を脱ぎ、中へと入って行った。

通された先は、リビングだった。
軽く20畳はありそうな、立派なリビングに、二階は吹き抜けになっている。
奥の方にキッチンとダイニングが存在した。
「その辺、適当に掛けろよ」
無造作にバサッと鞄を投げ、相良くんは何やらキッチンの方に向かって行った。
あたしは、唖然として周りを見渡してから、本革張りの椅子に腰掛ける。
どれもこれも、高そうな調度品類ばかりだった。
「ほら」
キッチンから戻ってきた彼は、あたしの前にどん、と飲み物が入ったグラスを置いた。
「悪いな。茶しかなくて」
「ううん、全然!ありがとう…」
男の人の家に上がるのも、こんな豪邸も初めてだったあたしは、声がうわずり、石のように固くなってしまった。
「そんな緊張すんなって。大丈夫だ。色気0のお前には何もしねぇから」
そう言って相良くんはハハッと笑ったが、あたしは笑えず、ただ口元を引きつらせて持ち上げるのが精一杯だった。
すると、彼はまたどこかに行き、少しの後、また戻ってきた。
その手には、注射器が握られていた。
え、注射……?
あたしが思わず目を丸くして見ていると、彼は徐ろに左腕をまくりはじめた。
あたしはそちらに視線を落とす。
すると、内肘に、注射痕があるのがいくつか見えた。
注射……内肘………相良くん………。
………まさか!
あたしの脳裏に、良くない考えが浮かんだ。
…………まさか、彼は、高校生にして、薬物などをやっているのでは…?!
あたしを呼んだのは、誘うため?!
顔が、さあっと青ざめていくのが、わかった。
彼は、慣れた手つきで注射に薬らしきものを入れている。
あたしの事など、見てはいないようだった。
そして、洗浄綿で内肘を消毒すると、注射をそこに打ち始めた。
あたしは、口をぽかんと開けて、一連の彼の行動を見ていた。
全ての薬を身体に入れ終わったらしく、空っぽになった注射器を腕から抜き、彼は、注射針を抜いて、専用の袋に入れている。
容器だけをテーブルに置き、刺した部分を少し揉んだ後、あたしの方をちらりと見やった。
あたしはきっと、見てはいけないものを目の当たりにした顔をしていたのだろう。
驚愕と恐怖に怯えた表情をしていたのかも知れない。
それを見た彼の、吹き出しそうになっている顔を見て、わかった。
「…お前、コレ、何だと思ってる?」
唐突に聞かれ、返答に詰まる。
「え…。いや…何だかよくわからない…」
「変な薬物だとか思ってんじゃねぇの?」
「いやっ!決してそんな事は…!」
あたしは図星を突かれたが、慌てて否定した。
もし、そんな事を言ってしまったら、確実に誘われる。
口止めで、何かされるかも知れない…!
正直、怖くて仕方なかった。
が、しかし、彼の口から出てきた言葉は、あたしの想像とは全く別のものだった。

「コレが、オレの秘密」
「え………?」
「血糖値をコントロールするクスリ。コレがないと、オレ、生きてらんねぇの」
「……血糖値?コントロール?……相良くん………何かの、病気なの……?」
「急性腎不全。血糖値が高くなるから、下げる薬使ってんだ。学校と、親しか知らない。あとは、お前ぐらいだ」
「え………?そんな大事な秘密を、あたしなんかに……?」

彼の考えている事が、よくわからなかった。
仲の良い人にも決して話さなかったような重大な秘密を、あたしだけに打ち明けてくれるなんて…。
注射を打ち終わった場所を隠すようにシャツを元に戻してから、相良くんはポツリと言った。
「お前は、信用できそうだ」
「そ、そう……?」
光栄な事だが、その意味がイマイチよく理解できない。
そんな微妙な表情を見て、考えている事を汲み取ったかのように、彼はあたしをじっと見据えて言った。
「お前は、人の痛みがわかる人間だからだ。少なくとも、俺はそう感じてる」
「痛みが…わかる?」
「そうだ。苦しんでる人を、放っておく事ができないだろ?そして、自分も苦しんだ。だからだ」
「うん……。でも、あたしの苦しみなんて、相良くんに比べたら…」
ほんのちっぽけな苦しみに思えた。
彼は、一人で病と闘っている。
命に関わる事だ。
それに比べたら、あたしなんて、全く足元にも及ばないくらい、ちっぽけな苦しみしか経験していない。
かえって、申し訳なくさえ、思えた。
相良くんの抱えている孤独は、どれだけのものなんだろう。
誰にも言えず、助けも求められず、ただ、命を精一杯生きている。
そこに、あたしなんかが介入してしまってもいいのだろうか?
あたしには…何が、できるのだろう…。
言葉が見つからず、あたしは、目の前のお茶に手を伸ばし、少しだけすすった。
相良くんはその様をじっと見ていたが、ふっと優しい顔になり、笑みを浮かべながら、自分もお茶に手を伸ばした。
「お前がぶっ倒れた時、他人事だと思えなかったんだよ。オレだって、いつああなってもおかしくない。ああ、こいつは、オレと似てるトコがあるのかもなって。助けてやらなきゃ、って。で、気付いたら、お前を抱えて保健室行ってたんだ」
「そうだったんだ…」
「オレと同じだって思ったんだ。コイツなら、オレの痛みをわかってくれるかもしれない…って」
あたしは、その時、悟った。
彼は、孤独なのだと。
誰にも心を許せず、誰の事も信用できない。
どのような経験からそうなってしまったのかはわからなかったが、自ら孤独を選んでいた。
まるで、中学の頃のあたしと同じだ。
もしかしたら、信じていた人に、裏切られた経験があるのかも知れない。
彼の抱えている心の闇は、どれ程のものなんだろう。
きっと、あたしには想像も付かないような、深い闇なのだろう。
でも彼は、あたしに、あたしなんかに、救いを求めた、ように、思えた。
あたしは彼の、一筋の光に、なれるのだろうか…。

「茶、飲んだらもう帰れ」
突然、相良くんがあたしにそう告げた。
「はっ?」
「親御さんだって、心配すんぞ」
「あ、いや、…まあ、確かに…」
ちらりと時計を見やると、夕方5時近かった。
「うん、わかった。そうするね」
「あ。お前…もしかして、北婦人科に通ってるのか?」
「えっ?なんでそれを…」
「前に駅で会ったろ。あの時は、オレも病院行くとこだったから、バツが悪くて」
そうだったのか…。
あたしは、ふと、数ヶ月前のその出来事を思い出した。
あの時、彼は寝た振りをして、あたしをやり過ごそうとしたんだっけ。
なんだか懐かしく思えて、クスっと笑ってしまった。
「…悪かったな」
「ううん。でも、あたしの通ってる婦人科が、どうかしたの?」
「いや、良かったらでいいんだけどさ、オレの母親、個人で婦人科のクリニックやってるから、どうかと思って。あそこ、学校帰りに通うの大変だろ」
そう言うと、一枚のカードをあたしにくれた。
クリニックの案内カードらしい。
「腕は確かだぜ。医者の人柄は保証しないけどな」