ある冬の寒い日。
その日は、高校の入試だった。
オレは、正直だるいな、と思いながらその日、入試を受ける高校へと登校した。
寒いし、受けたって何の意味もない
オレは他の高校から推薦の話をもらい、特待生で入学できる、と言われていた。
だから、ここは本当に滑り止め。
それも、オレにとっては中の下の高校。
受ける事に意味なんてあんのか。
そう、憂鬱な思いだった。
身体の調子だって良くはない。
こんな寒い日は、「発作」が起きやすい。
別にメンタルを病んでいるわけじゃないが、内臓の調子が悪くなるのが、自分でわかる。
温度差には極端に弱い。
オレはその日、鬱陶しさと煩わしさで、どちらかといえばイライラしていた。
雪もちらついてたし、このままフケて帰りたいくらいだった。
でも、どういうわけか、オレは入試に向かった。
滑り止めだが、受けないよりはマシか。
医大を目指すオレにとっては、あまり関係のない高校だったが、それでも行くところが無く、ぶらぶらするよりはいいだろう。
それに、そうなるぐらいなら、親が金を積むはずだ。
それだけは、嫌だった。
今までどれだけ親がオレに金を積んできたか。
それを思うと、もうそれも鬱陶しかった。
何かというと、金にものを言わせる、あのやり方。
中学の時だって、そうだった。
だからオレは中学を卒業できたようなもんだった。
このまま来るな、と言われてもおかしくない事ばかりしてきた。
でもその度、親が学校に頭を下げに行き、最終的には、相手方と金で解決を勝手にしてしまっていた。
そのやり方が、オレにはどうしても受け入れがたかった。
オレの小遣いは、月10万。
それも気に入らなかった。
足りなかったわけじゃない。むしろ、中学生にしちゃ多すぎる額だ。
大学病院の教授の父親、開業医の婦人科医の母親。
できすぎた家に生まれちまったもんだ。
それだけでも十分プレッシャーだったのに、金までかけられたら、オレの立場がない。
だからオレは、そのやり口がすごく嫌でたまらなかった。
自分でできる事はしたい。
でも、公立高校は、レベルが低すぎる。
私立は金がかかるから、本当は行きたかった、そして受かっただろう高校に、推薦希望をだしておいた。
その結果はまだだった。
だから、半ば仕方なく、この高校を受けに来たのだ。
理由は簡単。家から近かった。
そして、先生も、知ってる先生がいた。
中学の時に世話になった先生が、職種を変えてこの高校にいると聞いた。
他校の先生だったが、「オレの事情」を知っている先生だったから、授業とか出られなくても、多少の融通は利くだろう。
そんな軽い気持ちだけだった。
私立みたいにその科目に特化してないから、やりたい勉強はできないかも知れない。
でも、大学に行く時に高校で学んだ事は、どんな事であれ少なからず役に立つ。
予備校などに行くよりも、はるかに効率的だ。
適当に過ごせりゃそれでいい。
別に、高校生活には何の期待もしていない。
だから、この高校でいいや、と思った。

案の定、入試に向かう途中の校門近くでは、知ってる顔がわんさかいた。
みんな近いところを選ぶんだ。
安直すぎるな。
そんな風に周りを見下しながら、オレは校門をくぐった。
目についたのは、雪をかぶった寒そうな出立の桜の木々たち。
その中に、一際背が低い桜の木がある事を、オレは以前から知っていた。
ここは何度も通りかかる。
その度に、目にしていたからだ。
要は、校門の外からも見えやすい位置にあった、という事だ。
なんだかその桜だけ、特別に見え、ちゃんと根を張って生きているように見えた。
オレのように、一日一日を、大切に生きている桜なのかもしれない。
あの木が花をつけるところを、見たい気も、少しだけしていた。
オレはそこに何気なく近づいた。
と、裏側に人がいる事に気づいた。
誰だ?
知ってる奴じゃなさそうだ。
そいつは、その桜を愛おし気に見上げていた。
まるで、何かを語りかけるかのように。
風貌を見ると、冴えない女だった。
黒髪、おさげ、そしてメガネ。
背は桜と同じく低く、小柄だった。
でも、この周りの中学の制服じゃなかった。
よく見ると、「南中」と書いた校章が見えた。
南中?
ああ、オレが前に呼ばれて乗り込んだ、弱小中学か。
弱いくせに良い度胸してたな。
そんな、そう遠い昔の事でもない思い出が、なんだか懐かしく思い出された。
…変な女。
なんだって、こんな遠い高校まで来てんだ?
何かあったヤツなのかな。
でも、こんな奴は見た事ないぞ。
そんな事を考えながら、オレはそいつの顔を初めてじっと見た。
もちろん、気づかれないように。
その瞬間、オレの中に何か衝撃が走った。
その目は、聖母のような優しさに満ちていて、希望でキラキラと輝いていた。
それに、優しい笑みを讃える口元。
…コイツ、意外と整った顔立ちをしてる。
もっと笑ったら、どんな笑顔なんだろうな。
困った顔は?泣いた顔、怒った顔は?
もっと色んな表情が見たくなった。
それに、この木に語り掛けるような、この態度。
そっと幹に触れ、感触を確かめている。
端から見れば危ないヤツだが、何か、オレにない純粋なものを持っている。
そんな気がするようになっていた。
オレは気づかないうちに、そいつに取りつかれたように、なってしまっていた。
暗い女なんだろう。
でも、ただ暗いだけじゃないはずだ。
その、核の部分を見てみたい。
一瞬でこんな事を思える女に出会ったのは、初めてだった。
出している雰囲気が、オレの心を、そうさせた。
ふと、鞄についているネームタグを見た。
そうか、南中は鞄指定だったっけか。
だから、ネームタグつけてんだな。
オレにとってそれは都合の良い事だった。
話しかけずに、名前を確認できる。
そっと覗くと、名前らしきものが見えた。

『3-C 水島 大輪花』

大輪花…?
何て読むんだ?
こんな珍しい名前は見た事がない。
同じ中学に、聖羅というやつはいたが、それは字が難しいだけで、読むのは簡単だった。
ヤツとは小学校から同じ腐れ縁だ。
男勝りな性格のせいか、よくケンカもした。
でも、ヤツは絶対に敗北は認めなかった。
負けん気だけは強い女だ。
でも、コイツはそんな雰囲気は持ち合わせてはいない。
周りに取り巻いていた、うざったいだけの着飾った、嫌な匂いのする口だけの女たちとも、ジャンルが違いそうだし。
かといって、そこまでオタクっぽい要素が見られるか、というと、それも少し違った。
どちらかといえば、清楚な部類だ。
でもそれでいて、雰囲気は柔らかかった。
この女の事を、もっと知りたい。
コイツも、受かればいいな。
オレは受かるけど。
そんな淡い期待を胸に、オレは入試にそいつより先に向かった。
水島…なんか難しい名前。
入学したら、聞いてやろう。
その瞬間、オレは、私立を蹴る事に決めた。
大輪花は、それだけ、オレに影響をその時から、与えていたんだ。


そんな淡い期待をしながら、待ち詫びた春。
やっと中学を卒業できて、今度は高校入学だ。
春ってのは、目まぐるしい季節だ。
でも、嬉しい事もある。
面倒くさい事ばかりのオレにも、そのうきうきとした「春」がやってきた。
アイツ、いるかな。
そんな想像をしながら、オレは登校する。
入学式は午後から。
だからもっと遅く出ても良い。
病院に寄っても十分間に合う時間だ。
…のはずだった。
家を出ようとした瞬間、軽い発作が起きた。
畜生、なんでこんな日に…。
オレは自分の身体を心底恨んだ。
でも、薬を飲んで少し休めば、登校ぐらいはできるはずだ。
今日は、午前診療で、母親が帰ってくる予定になっていた。
が、母親の方も、診察が押しているようだ。
待つだけ待って、しびれを切らしかけたその時、やっと母親が帰ってきた。
「龍彦。入学式行くわよ」
オレの身体はちらっと見やっただけで、そう義務的に母親は言った。
そんな対応は、オレは慣れていた。
迷惑はかけ通しだったし、オレの身体の事は誰よりも知っている。
なぜなら、曲がりなりにも、彼女は医者だからだ。
専門は違っても、医学で学んだ知識はまだ身についているはずだった。
だから、わざわざ親父に聞かなくても、なんとなくの察しはついているだろう。
オレの病気の程度も。
そんな事を考えながら、だらだらと支度をし、母親と一緒に家を出た。
案の定、体育館での入学式は、終盤を迎えていた。
オレはそこにそっと参加し、辺りを見回した。
…やべぇ。ここじゃ、わからねぇ。
座って参加するその式では、アイツの存在は確認できなかった。
オレはその日は諦める事にした。
どうせ、明日から嫌でも学校だ。
HRで自己紹介かなんかするだろ。
同じクラスだったらラッキーかな。
…そうだ。クラス分けの貼り出しが、玄関にあったな。
オレはその式が終わると、その後教室には行かず、一人で玄関に向かった。
自分のクラスを探しあてると、そのすぐ横を見てみた。
すると、奇跡的にも、アイツの名前を発見した。
『水島 大輪花』
・・・・・・・やった。
オレはそう、瞬間的に思った。
これで、明日から同じクラスでいられる。
向こうはオレを最初は警戒するだろうが、そんなのは関係ない。
じきに、慣れてくるはずだ。
それに…慣れさせてみせる。
オレは、オレの中に訪れた「春」を、噛み締めながら、その日は学校を後にした。
明日からの期待で胸が一杯だった。
もう、その事しか頭になかった。
テストとか、授業とか、もうどうでもいい。
アイツがいる、それだけで、この高校生活が楽しくなりそうな、良い予感しかしていない。
そう、おめでたい性格なのだ、オレっていうやつは。
そのポジティブさだけには、感謝した。

果たして、次の日。
…またか。
薬切れの発作。
親父に薬をもらってから登校しなきゃならない。
めんどくせぇな…。
でも、ないものはない。
だから、仕方がない事だった。
オレは朝、家を出ると、学校とは逆方向の親父の病院に向かった。
大学病院で親父の名前と、息子だと告げると、受付もなしに通してくれる。
そこで、親父と対面し、形だけの診察をして、薬を処方してもらう。
その薬局がまた長い。
診察はこんなにスムーズなのに、薬局には顔利きがいないからだ。
待ち時間はイライラして、オレは貧乏ゆすりが止まらなくなっていた。
やっと呼ばれて薬をもらい、急いで学校に向かう。
でも、走るのはだめだ。
走ってしまったら、元も子もない。
だからあくまで、速足程度にしか急ぐ事ができなかった。
気ばかりが焦り、早く学校に着かないか、とそればかりを考えていた。
腕の時計を見ると、もう10時を周っていた。
やばい。HR終わる。
オレはその時ちょうどタイミング良く来た電車に乗り、気持ちだけ走って学校に向かった。
クラスに着くと、やはりオレは注目の的にされた。
当然だ。
こんな成りで、入学式の次の日から遅れてくるヤツはオレぐらいしかいない。
だから、別に気にはしなかった。
ただ、その時ちょうど立っていて、立った今自己紹介を終えただろうと予測がつくヤツが、気になって見てみた。
…アイツだ。
タイミングが良いのか悪いのか。
アイツの名前、また聞き逃しちまった。
これは、個人的に聞くしかない。
幸いにも、席は近かった。
だからオレは躊躇せず、聞いてみた。
「名前。フルネーム」
するとそいつは若干おどおどしながらも、あの時と同じ、希望に満ちたキラキラした目でオレに答えた。
「水島…大輪花(だりあ)」
「へぇ…」
そっか。ダリアって読むのか。
どうりで読めないわけだ。
オレは妙に納得しながら、変わってるけど、でも、悪い名ではないな、と思った。
その名前を付けたヤツの親は、なかなかセンスがある。
大輪の花って書いて、ダリアか。
まあ、確かにそうだ。
ダリアって花は、でかい花をつける。
そこから取ったのかは定かではないが、オレは、その名前に、妙に納得してしまった。