夢開く大輪の花

いよいよ夏休み。
待ちに待った人の方が多いとは思うが、あたしはどこか寂しい気持ちを抱えていた。
だって、毎日のように逢っていたリュウくんに、逢えなくなる。
そのかわり、3日間だけは、あたしにくれると約束してくれた。
そして、あたしは、この夏休みで、病院を変える決心をした。
リュウくんのお母さんが院長を務める、病院に行ってみようと思ったのだ。
彼があんなに薬に詳しく、病状にも詳しいのは、お母さんのお陰だと前にはなしてくれていた。
そこまで患者に寄り添ってくれる先生になら、安心して診てもらえると思ったのだ。
今まで通っていた病院に紹介状を書いてもらい、あたしはその病院に行く事にした。
が、何せ自宅からは遠い。
学校がある日ならともかく、夏休み中に通うには、かなりの労力がいる。
でも、あたしはそこに通うと決めたのだ。
自転車では、恐らく40分程度で着くだろう。
それくらいは、覚悟していた。
それよりも、リュウくんのお母さんがどんな人なのか、気になって仕方がなかった。
彼は、お母さんの事を、「人間性はともかく」と言っていた。
お医者さんだから、小さい頃から家にはあまりいなかったのだろう。
リュウくんがどんな環境で、どんな親御さんに育てられたのかが、ただ知りたかったのだ。
それに、腕は保証する、という彼の言葉も信じたかった。
少し怖くはあったけれども、あたしは、会ってみようと思っていた。

果たして、病院当日。
初診のため、待たされるのは覚悟していた。
今日は、リュウくんは予備校の夏期講習があると言っていた。
この時間は、恐らく授業中だろう。
夏休みだから、時間には余裕があるし、融通もきく。
だから、午前中を選び、頑張って開院時間に合わせて行った。
到着すると、そこはこぢんまりとはしているが、キレイな外装の、女性が好みそうな配色のクリニックだった。
表には、「さがらレディースクリニック」の看板がある。
あたしは意を決して、中へと入っていった。

中はとても清潔で、妊婦さんも数名いた。
が、出産機関は整ってはいなかった。
入院できるスペースもない。
何か緊急があったら、お父さんの勤める大学病院へと運ばれるシステムなのだろう。
勝手に、そんな想像までしていた。
問診票を書き終え、診察の順番を待った。
すると、意外にも早くに呼ばれ、あたしは拍子抜けした。
通常ならば、初診患者はものすごく待たされる。
1時間以上なんてざらな事だ。
が、この日は、わずか30分足らずで呼ばれた。
患者が少ない訳ではないが、通常の診察と予約の診察が分かれているのだろう。
あたしも一応予約はしたが、妊婦さんの診察なんかも、分けているのかも知れない。
あたしは呼ばれた診察室に入り、改めて、その医師-リュウくんのお母さん―と、対面した。

「初診の方ね」
「はい」
「紹介状を拝見しました。結構な重症なのね、あなた。その若さで、大変でしょう」
と、義務的なやり取りがなされる。
「あの…」
「とりあえず、検査してみましょうか。どのくらいの症状の重さなのかを、知っておきたいわ」
「はい…」
「何か質問があれば、検査結果が出た後の診察で聞きますね」
通常の医院で行われる、通常の初診診察の流れが、淡々となされる。
その中で、あたしは、彼女の顔を凝視していた。
「相良先生」は、あたしの顔は特に見ず、カルテとにらめっこしながら、検査の手配をしていた。
随分、義務的な先生だな…。
あまり、患者の人柄は見る気配がない。
リュウくんが、言っていた言葉の意味が、なんだかわかった気がした。
自分の仕事をただ全うするだけの先生なのかもしれない。
けれど、エコー検査をすると、彼女は顔をしかめた。
「あなた、子宮内膜症になりかけてるわよ」
「そ…そうなんですか?」
それは前の病院では言われた事は無かった。
「月経はちゃんときてる?」
「はい。不順な時もありますけど…」
「不順の原因は、これと、排卵障害かもしれないわね」
相変わらずあたしの方は見なかったが、画面を見ながら、そう心配そうな口調であたしに告げた。
「とりあえず、痛み止めと、ホルモン剤で様子を見ましょう。月経の時に飲んでね。あとは、ピルが効果的だと思うんだけど、未成年の場合、ご両親の許可がいるの。どうします?」
「あ…とりあえず、親に相談してみます」
「そうね。その方がいいと思うわ。ホルモン剤は適性があるから、合わなかったら違う方法を考えましょうね」
そう、あたしに診察結果を伝えると、カルテに記入をし、
「では、今日はこれで終わりです。あと、血液検査をして帰ってね」
「はい…」
最後まで義務的な口調が、彼女の人間性を物語っているようだった。
どこか冷たく突き放すような口調。
相手の目を見ない、態度。
リュウくんは、このお母さんに育てられたのか…。
自分の親とは全く違う部類なので、すこし抵抗を覚えてしまった、自分が、いた。
リュウくんのあの、最初に見た、どこか寂し気な目は、ここから来ていたのかも知れない。
あたしは診察室を出る直前に、振り返って彼女に言葉をかけた。
「あのっ…」
「はい?何か質問でも?」
「あ…いえ、そうではなくて…」
あたしは、汗をかいている手の拳を握りしめ、勇気を出して、言った。
「相良…龍彦さんの、お母さん…ですよね?」
すると彼女は初めてあたしの顔を見上げた。
その表情は、少しの驚きと、やはり冷たさが感じられた。
「龍彦の、学校の方?」
「そうです。…クラスメイトです」
あたしは咄嗟に、少しの嘘をついた。
とても、今の状況では、交際をしています、などとは言えない。
あながち全くの嘘ではなかった事だけが、その場の救いだった。
「そう。あの子がいつも、お世話になっているわね」
彼女はそう言うと、初めて、笑顔を見せた。
「あの子、学校では、うまくやっているかしら?」
「はい。友達もいますし、授業も真面目に受けています」
「そうなの。あの子、とっつきにくいところがあると思うけれど、仲良くしてあげてくださいね」
そうあたしに言葉をかけてくれたその顔は、紛れもなく、母親のそれだった。
あたしはなぜか、少し安心していた。
やっぱり、何にせよ、自分の子供の事は気になるものなのだ。
母親とは、いつでも子供の事を気にかけている。
それが確認できただけでも、あたしは、良かった、と思えた。
多分、リュウくんは、こんなお母さんの表情は知らないだろう。
仕事中の親の顔は、子供は知らないものだ。
でも、この事は、リュウくんには秘密にしておこう。
詮索するために、この医院に通う事にしたわけではない。
「はい」
それだけ言うと、あたしは診察室を後にした。

確かに、腕は良い先生のようだ。
患者の人柄こそ見ないものの、病気の発見に関しては、細かく診てくれる。
症状にも、耳を傾けてくれる。
医師としては、良い先生なのだろうな。
あたしは安堵の気持ちと、少しだけ彼女を知れた満足感でいっぱいになり、家路についた。

『予備校、だるい』
家に着くと、そんなLINEがリュウくんから入っていた。
ちゃんと行ってるみたい。
良かった。
あたしはすぐさま、『ちゃんと行ってて偉いじゃん』と、返信をした。
普段の、こんな何気ない、他愛もない文字同士のやり取りも、生活の一部になってきた。
最初のぎこちなさはなくなり、お互い、今日は何をしていたとか、今何しているとか、そんな事を言い合うだけで、充分満足だった。
たまに電話したりもした。
自室でかけていたのに、終わって部屋から出てみると、母がニヤニヤしながらドアの前にいた時もあった。
悪趣味だからやめてくれ。
そう、何度も言いそうになったが、親が子を心配する気持ちは、何となくわかってはいたから、そのまま流す事にしていた。
何か言ってきたら、ちゃんと答えるつもりで。
あたしたちは、別にやましい事をしているわけではない。
普通に、「付き合っている」というだけだ。
だから、隠す事もなければ、話せない事があるわけでもない。
でも、母から何かを聞いてくる事は、なかった。
父も同様だった。
必要な時に、必要な話だけをする。
それ以上には詮索はしてはこなかった。
家族とは、こんな風に、時間の経過で形を変えていくものなのだな。
まあ、高校生の娘がいれば、こんなものか。
あたしは、きっと気になっているであろう、あたしとリュウくんの関係について、そっとしておいてくれている事実には、感謝していた。
「大輪花。ケーキ食べない?」
母が突然、夜にあたしに言ってきた。
「珍しいね。今日、何かの日だっけ?」
「違うけど。いつものスーパーの隣にケーキ屋さんできてたから、買ってきちゃった」
あたしは、携帯を部屋に置き、キッチンへと下りた。
父は今日も残業らしく、キッチンには母と二人だった。
あたしには兄弟はいない。
だから、母もきっと寂しいのだと思う。
あたしが年頃になり、親の干渉を避けるようになった事が。
でも、それでも母は、何も問いただす事はしなかった。
「最近、あんた、いい顔してるじゃない?」
「そう?」
「そうよ。気づかないとでも思った?」
ケーキを前にしてそう言う母は、心なしか嬉しそうだった。
「いい人がいるんでしょ」
「えっ!?」
「いいわよ、言っても。自分の娘の事ぐらい、見てたらわかりますよー」
そう楽し気に言う母がどうしても解せなかったが、楽しそうだからいいか、と、考える事にした。
「うん、彼氏ができた」
「そうなんだ!だからこの間、帰りが遅かったのねー」
「そうだけど…」
「どんな人なの?なんて、聞かないわよ。あんたが良いと思った人なら、良い人なんだろうからね」
こういう時の母は、好きだ。
あたしの事を信用し、任せてくれる。
とやかく言われた事は、一度もなかった。
高校を決めた時も、そうだった。
あんなに遠くの、しかも成績もそこそこの高校に、よく行かせてくれたものだ。
それは、あたしがどんな経験をしてきたか、言わなくてもわかっていてくれたからだったのだろう。
改めて、母ってすごいな、と思った。
「ねぇ、大輪花」
「ん?」
「あんた、ようやく、名前についてこれるようになったんじゃない?」
「は?」そう
「今までのあんたは、名前負けしてたものね。だから、母さんは、嬉しいのよ」
少しの嫌味を含んだその物言いが、なんとも母らしかった。
こんなところは、変わらないな。
あたしはため息と同時に笑みを漏らした。
「そうだね。ようやく。自分の名前が、少し好きになったよ」
「あとは…夢、かな」
「夢?」
「そう。大輪花、何でもいいから、夢を持ちなさい。どんな事でもいいから、夢に向かって邁進できる人間になりなさい」
珍しく親らしい言葉が、母の口から飛び出た。
「どうしたの?そんな事言うなんて、珍しいじゃん」
あたしは照れ隠しのように、そう言った。
こんな話を母とするのは、どれくらいぶりだろう。
そのくらい、このような話とはかけ離れた生活を送っていた。
中学の時は、自分でいっぱいいっぱいでそれどころではなかったし、母もそれは勘づいていた。
だから、そっとしておかれる事が多かった。
高校に入って、このような話を母とする事になろうとは、しかも、「彼氏」という存在ができてから。
夢、か。
まだ、考えた事もなかった。
大学進学だって、あまり考えてはいない。
自分が何をしたいのか、どこに向かっているのか、それを今は模索している段階なのだ。
しかも、今の高校にだって、やりたい事があって進学したわけではない。
だから、夢、というものが、どんなものか、漠然としかわからないのだ。
「そのうち、きっと見つかるよ」
あたしはそう、濁した。
小さい頃なら、色々見ていた夢があった。
それが現実という壁に阻まれ、あまり現実味を帯びないものは、そこから段々と排除されていった。
今の段階でそれを見つけるのは、あたしには難しい事だった。