電車に乗り継ぎ、夕方4時から向かった「その場所」に到着したのは、午後5時を周っていた。
それもそのはずだ。
電車を2本も乗り継いで、しかも乗り継ぎが悪く、普段使わない路線を使用してやっとの思いでたどり着いたのだから。
自宅から自転車で行けば、10分程度の場所なのに、公共交通機関を使用すると、なんと行きづらい場所なのだろう。
まあ、もともとこういう場所は、そんなに交通の便が良いところには立地していないものだが。
それにしても、リュウくんを、すごく歩かせる羽目になってしまった。
当の本人は、今日は調子が良いらしく、あまり疲れていない様子だったが、誘い出したあたしの方が、疲れてしまっていた。
自分の体力の無さを、改めて思い知らされ、夏休みに入ったら、毎日ウォーキングでもして体力をつけよう、と密かにこの時に決めた。
リュウくんを連れて来たその場所は、あたしの地元でも有名な、ご利益のある神社だった。
普段は神頼みなどに頼りはしないのだが、なぜか、この時、行かなければならない衝動にかられたのだ。
リュウくんを想っての事だったのかも知れない。
そこは縁結びも有名な場所だったので、デートスポットはそこ、と定番になっているくらいだった。
が、縁結びに来たのではない。
それは、きっと、彼も気づいているだろう。
100段は下らない段数がある階段を上り切ったその場所に、お社が見えた。
鬱蒼と茂った木々たちが、いかにも神様の住処だと、その場所を誇示しているかのように見えた。
夕方暗くなりかけに来たものだから、雰囲気もそこそこだ。
といっても、全くもって、高校生のカップルが来るような、ロマンチックな雰囲気ではなく、どちらかといえば、神々しさや、おどろおどろしさの方が勝っていた。
寺程ではないが、神社とは、往々にしてそういう場所である。
それぐらいは、あたしの範疇とするところだった。
何も言わずにあたしに着いてきてくれたリュウくんが、お社の前で足を止め、それをまじまじと見上げるように眺めた。
「ここが、お前がどうしても来たかった場所か?」
怪訝そうに言う彼に、あたしは、
「うん。ここはね、地元で有名な神社なの。何の神様かはわすれちゃったけど、ご利益があるんだって」
「何の神様かもわかんねーのに、お参りすんのか?」
「…あ…。それも、そうか…」
言われてみればその通りだ。
何の神様に対して、何を参ればいいというのか。
あたしは激しい自己嫌悪に陥っていた。
そんなあたしの凹んだ顔を見て彼は、
「ほんっと、大輪花って、変な奴」
「全くです…ごめんなさい…」
「ま、そんなとこが好きなんだけど」
そうフォローしてくれて、彼はあたしの手を取り、お社へと向かった。
「あたし…リュウくんに、元気になってもらいたかったの。病気に負けませんように、必ず、治りますように…って」
「大輪花…」
「だって、じゃないと、ずっと一緒にいられないじゃない…」
泣きそうな表情を浮かべているあたしに、リュウくんは、
「大輪花は、優しいな」
そう言って、優しく微笑んでくれた。
お社の前でお賽銭を入れ、鐘を鳴らして、一緒に手を合わせ、お参りをした。
彼は少し長い事手を合わせたまま、頭を上げずにじっと何かを祈っていた。
そんな彼を横目に見ながら、あたしも同じくらいの時間、神様に願いを注いだ。
―必ず、良くなりますように―
合掌を終え、あたしたちはくるりとお社に背を向けた。
近くのおみくじ販売所で、二人でおみくじを買って引いた。
あたしは、末吉だった。
「なんか…可もなく不可もなく、って感じなのかなぁ…」
そう独り言を言いながら隣のリュウくんのおみくじを覗くと、彼は大吉を引き当てていた。
「すごい!大当たりじゃん!リュウくん、今年絶対いい事あるよ!」
「そうか?」
「そうだよ!これは、運試しなんだから」
当の本人よりもあたしの方がはしゃいで、喜んでしまっていた。
我ながら大人げない…。
そう少ししょんぼりしていると、その一連の様を見ていた彼がふっと笑顔になった。
「お前、見てて飽きねーな」
「それはどういう意味で?」
「いや、何でもね」
クスクス笑いながら、手元のおみくじを見ているリュウくんを見ながら、あたしはそれでも、幸せな気持ちになれた。
あたしは今、彼を笑顔にできている。
元気にできている。
それは、とても幸せな事なのではないか。
誰しも、自分の大切な人には、笑顔でいて欲しいと願うだろう。
幸せな顔をしてくれると、こちらまで幸せな気持ちになれる。
「でも、コレ、当たってるな」
彼は突然そう言って、あたしの方を見た。
「だって、お前に、会えた」
「…え?」
と、あたしが言うより先に、あたしは何も言葉を発せなくなっていた。
突然、本当に突然、視界が、彼の顔によって、遮られた。
気づいたら、あたしの唇に、生暖かい何かが触れていた。
柔らかくて、温かい。人肌が、触れていた。
いや、人肌ではない。もっと、生々しくて、柔らかい、優しい温もり。
あたしの唇が、彼のそれによって、塞がれていた。
あたしたちは、初めて、キスを交わした。
それがキスだと改めて気づいたのは、皮肉にも、彼の顔が離れた瞬間だった。
あたしは何も考えられず、頭の中が真っ白になり、全てに力が入らなくなってしまった。
持っていたおみくじも、どこかへ落とした。
目は見開いたまま、どこを、何を見たらいいのかさえわからない。
そんな、プチパニック状態に陥っていた。
もちろん、どんな感覚かなどわからない。
ただ、心臓は、破裂するのではないかというくらいに鼓動が高鳴り、呼吸はその間、停止していた。
「…ごめん。大丈夫か?」
あたしは、リュウくんのその言葉によって、現実に引き戻された。
「・・・・・・・」
何も言葉が出て来ない。
あまりにも衝撃的な出来事すぎたのだ。
あたしには、刺激が少々強すぎた。
「もしかして…初めてだった?」
あたしは無言のまま、物凄い勢いで首を縦に振った。
「そっか。ごめん、びっくりさせて。でも、オレは嬉しい」
「…嬉しい?」
「大輪花の初めて、もらえた気がして」
そんな嬉しすぎる言葉をいとも簡単に発する彼を見ると、やはり、女の子慣れしているのかな…と、少しだけ、彼の過去に嫉妬してしまった自分がいた。
「ありがと。オレと、出会ってくれて」
リュウくんは、ちゃんとわかっている。
女の子が、特にあたしが、何ていえば喜ぶのか。
幸せな気分になるのか。特別感が湧くのか。
彼は、ずるい。
ずるいけど…あたしは、その時、自分は確実に、世界中で一番幸せな女だろうな、と思った。
「気がしたんじゃなくて…もらったんだよ」
「え?」
「ずるいな…リュウくんは。あたしの初めて、全部持って行っちゃうんだから…」
あたしは少し拗ねたようにそう言うと、彼に背を向けた。
恥ずかしすぎて、顔を直視できなかったから。
すると彼は背後からあたしを抱きすくめた。
「これも…初めて?」
あたしはその不意打ちに、自分でも制御できない感情が自分の中にある事を、初めて知った。
「そうだよ…全部初めてなんだってば…」
「嬉しい」
彼は、あたしを抱きしめる腕の強さを更に増した。
息ができなくなるかと思うくらい幸せな強い抱擁の中で、あたしは言葉にできない、言い表す表現が見つからないくらいの「幸せ」に浸っていた。
陽もすっかり落ち、誰も境内にはいなかった。
ざわざわと木々が騒ぐ音だけがこだまし、その聖なる静けさの中に、あたしたちは二人きりだった。
お社にはお守りが売っていた。
「ちょっと行ってくる」
あたしはお社の隣のお守り販売の受付に急いだ。
陽が落ちてしまったから、もう閉まってしまうと思ったのだ。
幸い、巫女さんがまだおり、お守りは販売してもらえた。
あたしはそれを握りしめ、リュウくんの元に走った。
「ハイ、これ。持ってて」
あたしが彼に手渡したのは、健康祈願のお守りだった。
「コレ、リュウくんを必ず守ってくれる。だから、持ってて。どんな時でも、あたしがリュウくんの傍にいる」
すると少し驚いた表情を見せた後、愛おしそうにあたしとそのお守りを交互に見たリュウくんは、あたしの手を握りながらそれを受け取ってくれた。
「ありがとな。こんな嬉しいプレゼントは、初めてだ」
あたしはホッとして、笑顔を取り戻した。
「良かった。あたしも、リュウくんに初めて、あげられたね」
「そうだな」
すると、彼は早速自分の鞄にそれをくくりつけた。
「これでもー手ぶらでは学校も予備校も行かね」
そう、笑いながら楽しそうに言った。
あたしはその様子を見られただけで、満足だった。
あたしたちは、境内に二人きり、あたし達だけの世界に、その時はいたのだ。
それを崩されるなんて、思ってもみなかった。
不測の事態が、起きてしまった。
それも、最悪の状況で。
「そろそろ帰るか」
暗くなった境内は、若干妖しさを称えていた。
その妖しさに、あたしたちは引き込まれる前に、神社を後にしようとその場を動こうとした。
その時だった。
「あれ?水島じゃん」
背後から、ふとそんな声をかけられた。
この声…。
知っている。
聞き覚えがある。
散々、中学の時に聞いた、思い出したくもない、あの声。
あたしは、思わず条件反射で、びくっとしてしまった。
そのまま、振り返る事ができなかった。
凍り付いたように、その場に立ちすくむ事しか、あたしにはその時には、できなかった。
「大輪花?」
心配したリュウくんが、あたしに声をかけてくれる。
「・・・・・・・」
その呼びかけにすら、あたしは応える事もできなかった。
あたしが一番聞きたくなかった、声。
会いたくなかった、人物。
そりゃ地元だから、こんな事は起きるだろうとは思ってはいた。
が、なにも、よりによって今日じゃなくても…。
お祭りの時とか、何か行事ごとがある時なら容易に想像はつく。
が、今日は何もない、普通の平日なはずだ。
しかも、夏休みも前。
そして、この時間。
なんという、最悪な偶然なのだろう。
そう、そこで鉢合わせてしまったのは、紛れもなく、大塚くんだったのだ。
「なんだぁ、覚えてないのか?オレの事」
「ツカー。やめときなってー。またあの時みたいになっちゃうよ?アイツ」
その時のグルの女子も何人かおり、数名のグループデートのようにして、ここに来ていたらしい。
あたしはあの時の記憶が思い出され、フラッシュバックしたかのように、鮮明な映像となり、目の前に現れた。
足がガタガタと震えだし、その場に立ちすくむのが精いっぱいだった。
「大輪花?知ってるやつ?」
リュウくんはあたしにそう話しかけるが、あたしは言葉を発する事ができないどころか、頷く事も、反応する事もできなかった。
リュウくんはそんなあたしの反応を見て、全てを察知したようだった。
「お、彼氏か?良いオトコ連れてんじゃん。お前にもオレ意外に彼氏なんてできるんだなぁ。ちょっと嫉妬ー」
そう小馬鹿にする声が朧気に聞こえ、それを聞いて面白がる女子達の高らかな笑い声も同時に耳に入ってきた。
「…大輪花。ちょっとここで待ってろ」
そう、突然リュウくんが、静かに怒りを露わにした声で言った。
それでも、あたしにはあくまで、優しい口調を保っていた。
「…え?」
あたしはなんだか嫌な予感がして、リュウくんを止めようと、その腕を取った。
が、すぐに振り払われてしまった。
「お前も、今はオレに近づくな。やべぇから…今」
そのやばさは、彼の顔を見れば一目瞭然だった。
目つきがいつもと全然違う。
その目は完全にすわっており、口元には微かな笑みすら浮かべていた。
口の端しか上がっていない。
誰が見ても、やばいくらいに怒りを露わにしている表情だった。
このまま放っておくと、何をしでかすかわからない。
そんな恐怖さえ、思わせるような表情だった。
それを見て初めて、あたしは、彼に恐怖を感じた。
それもそのはずだ。
電車を2本も乗り継いで、しかも乗り継ぎが悪く、普段使わない路線を使用してやっとの思いでたどり着いたのだから。
自宅から自転車で行けば、10分程度の場所なのに、公共交通機関を使用すると、なんと行きづらい場所なのだろう。
まあ、もともとこういう場所は、そんなに交通の便が良いところには立地していないものだが。
それにしても、リュウくんを、すごく歩かせる羽目になってしまった。
当の本人は、今日は調子が良いらしく、あまり疲れていない様子だったが、誘い出したあたしの方が、疲れてしまっていた。
自分の体力の無さを、改めて思い知らされ、夏休みに入ったら、毎日ウォーキングでもして体力をつけよう、と密かにこの時に決めた。
リュウくんを連れて来たその場所は、あたしの地元でも有名な、ご利益のある神社だった。
普段は神頼みなどに頼りはしないのだが、なぜか、この時、行かなければならない衝動にかられたのだ。
リュウくんを想っての事だったのかも知れない。
そこは縁結びも有名な場所だったので、デートスポットはそこ、と定番になっているくらいだった。
が、縁結びに来たのではない。
それは、きっと、彼も気づいているだろう。
100段は下らない段数がある階段を上り切ったその場所に、お社が見えた。
鬱蒼と茂った木々たちが、いかにも神様の住処だと、その場所を誇示しているかのように見えた。
夕方暗くなりかけに来たものだから、雰囲気もそこそこだ。
といっても、全くもって、高校生のカップルが来るような、ロマンチックな雰囲気ではなく、どちらかといえば、神々しさや、おどろおどろしさの方が勝っていた。
寺程ではないが、神社とは、往々にしてそういう場所である。
それぐらいは、あたしの範疇とするところだった。
何も言わずにあたしに着いてきてくれたリュウくんが、お社の前で足を止め、それをまじまじと見上げるように眺めた。
「ここが、お前がどうしても来たかった場所か?」
怪訝そうに言う彼に、あたしは、
「うん。ここはね、地元で有名な神社なの。何の神様かはわすれちゃったけど、ご利益があるんだって」
「何の神様かもわかんねーのに、お参りすんのか?」
「…あ…。それも、そうか…」
言われてみればその通りだ。
何の神様に対して、何を参ればいいというのか。
あたしは激しい自己嫌悪に陥っていた。
そんなあたしの凹んだ顔を見て彼は、
「ほんっと、大輪花って、変な奴」
「全くです…ごめんなさい…」
「ま、そんなとこが好きなんだけど」
そうフォローしてくれて、彼はあたしの手を取り、お社へと向かった。
「あたし…リュウくんに、元気になってもらいたかったの。病気に負けませんように、必ず、治りますように…って」
「大輪花…」
「だって、じゃないと、ずっと一緒にいられないじゃない…」
泣きそうな表情を浮かべているあたしに、リュウくんは、
「大輪花は、優しいな」
そう言って、優しく微笑んでくれた。
お社の前でお賽銭を入れ、鐘を鳴らして、一緒に手を合わせ、お参りをした。
彼は少し長い事手を合わせたまま、頭を上げずにじっと何かを祈っていた。
そんな彼を横目に見ながら、あたしも同じくらいの時間、神様に願いを注いだ。
―必ず、良くなりますように―
合掌を終え、あたしたちはくるりとお社に背を向けた。
近くのおみくじ販売所で、二人でおみくじを買って引いた。
あたしは、末吉だった。
「なんか…可もなく不可もなく、って感じなのかなぁ…」
そう独り言を言いながら隣のリュウくんのおみくじを覗くと、彼は大吉を引き当てていた。
「すごい!大当たりじゃん!リュウくん、今年絶対いい事あるよ!」
「そうか?」
「そうだよ!これは、運試しなんだから」
当の本人よりもあたしの方がはしゃいで、喜んでしまっていた。
我ながら大人げない…。
そう少ししょんぼりしていると、その一連の様を見ていた彼がふっと笑顔になった。
「お前、見てて飽きねーな」
「それはどういう意味で?」
「いや、何でもね」
クスクス笑いながら、手元のおみくじを見ているリュウくんを見ながら、あたしはそれでも、幸せな気持ちになれた。
あたしは今、彼を笑顔にできている。
元気にできている。
それは、とても幸せな事なのではないか。
誰しも、自分の大切な人には、笑顔でいて欲しいと願うだろう。
幸せな顔をしてくれると、こちらまで幸せな気持ちになれる。
「でも、コレ、当たってるな」
彼は突然そう言って、あたしの方を見た。
「だって、お前に、会えた」
「…え?」
と、あたしが言うより先に、あたしは何も言葉を発せなくなっていた。
突然、本当に突然、視界が、彼の顔によって、遮られた。
気づいたら、あたしの唇に、生暖かい何かが触れていた。
柔らかくて、温かい。人肌が、触れていた。
いや、人肌ではない。もっと、生々しくて、柔らかい、優しい温もり。
あたしの唇が、彼のそれによって、塞がれていた。
あたしたちは、初めて、キスを交わした。
それがキスだと改めて気づいたのは、皮肉にも、彼の顔が離れた瞬間だった。
あたしは何も考えられず、頭の中が真っ白になり、全てに力が入らなくなってしまった。
持っていたおみくじも、どこかへ落とした。
目は見開いたまま、どこを、何を見たらいいのかさえわからない。
そんな、プチパニック状態に陥っていた。
もちろん、どんな感覚かなどわからない。
ただ、心臓は、破裂するのではないかというくらいに鼓動が高鳴り、呼吸はその間、停止していた。
「…ごめん。大丈夫か?」
あたしは、リュウくんのその言葉によって、現実に引き戻された。
「・・・・・・・」
何も言葉が出て来ない。
あまりにも衝撃的な出来事すぎたのだ。
あたしには、刺激が少々強すぎた。
「もしかして…初めてだった?」
あたしは無言のまま、物凄い勢いで首を縦に振った。
「そっか。ごめん、びっくりさせて。でも、オレは嬉しい」
「…嬉しい?」
「大輪花の初めて、もらえた気がして」
そんな嬉しすぎる言葉をいとも簡単に発する彼を見ると、やはり、女の子慣れしているのかな…と、少しだけ、彼の過去に嫉妬してしまった自分がいた。
「ありがと。オレと、出会ってくれて」
リュウくんは、ちゃんとわかっている。
女の子が、特にあたしが、何ていえば喜ぶのか。
幸せな気分になるのか。特別感が湧くのか。
彼は、ずるい。
ずるいけど…あたしは、その時、自分は確実に、世界中で一番幸せな女だろうな、と思った。
「気がしたんじゃなくて…もらったんだよ」
「え?」
「ずるいな…リュウくんは。あたしの初めて、全部持って行っちゃうんだから…」
あたしは少し拗ねたようにそう言うと、彼に背を向けた。
恥ずかしすぎて、顔を直視できなかったから。
すると彼は背後からあたしを抱きすくめた。
「これも…初めて?」
あたしはその不意打ちに、自分でも制御できない感情が自分の中にある事を、初めて知った。
「そうだよ…全部初めてなんだってば…」
「嬉しい」
彼は、あたしを抱きしめる腕の強さを更に増した。
息ができなくなるかと思うくらい幸せな強い抱擁の中で、あたしは言葉にできない、言い表す表現が見つからないくらいの「幸せ」に浸っていた。
陽もすっかり落ち、誰も境内にはいなかった。
ざわざわと木々が騒ぐ音だけがこだまし、その聖なる静けさの中に、あたしたちは二人きりだった。
お社にはお守りが売っていた。
「ちょっと行ってくる」
あたしはお社の隣のお守り販売の受付に急いだ。
陽が落ちてしまったから、もう閉まってしまうと思ったのだ。
幸い、巫女さんがまだおり、お守りは販売してもらえた。
あたしはそれを握りしめ、リュウくんの元に走った。
「ハイ、これ。持ってて」
あたしが彼に手渡したのは、健康祈願のお守りだった。
「コレ、リュウくんを必ず守ってくれる。だから、持ってて。どんな時でも、あたしがリュウくんの傍にいる」
すると少し驚いた表情を見せた後、愛おしそうにあたしとそのお守りを交互に見たリュウくんは、あたしの手を握りながらそれを受け取ってくれた。
「ありがとな。こんな嬉しいプレゼントは、初めてだ」
あたしはホッとして、笑顔を取り戻した。
「良かった。あたしも、リュウくんに初めて、あげられたね」
「そうだな」
すると、彼は早速自分の鞄にそれをくくりつけた。
「これでもー手ぶらでは学校も予備校も行かね」
そう、笑いながら楽しそうに言った。
あたしはその様子を見られただけで、満足だった。
あたしたちは、境内に二人きり、あたし達だけの世界に、その時はいたのだ。
それを崩されるなんて、思ってもみなかった。
不測の事態が、起きてしまった。
それも、最悪の状況で。
「そろそろ帰るか」
暗くなった境内は、若干妖しさを称えていた。
その妖しさに、あたしたちは引き込まれる前に、神社を後にしようとその場を動こうとした。
その時だった。
「あれ?水島じゃん」
背後から、ふとそんな声をかけられた。
この声…。
知っている。
聞き覚えがある。
散々、中学の時に聞いた、思い出したくもない、あの声。
あたしは、思わず条件反射で、びくっとしてしまった。
そのまま、振り返る事ができなかった。
凍り付いたように、その場に立ちすくむ事しか、あたしにはその時には、できなかった。
「大輪花?」
心配したリュウくんが、あたしに声をかけてくれる。
「・・・・・・・」
その呼びかけにすら、あたしは応える事もできなかった。
あたしが一番聞きたくなかった、声。
会いたくなかった、人物。
そりゃ地元だから、こんな事は起きるだろうとは思ってはいた。
が、なにも、よりによって今日じゃなくても…。
お祭りの時とか、何か行事ごとがある時なら容易に想像はつく。
が、今日は何もない、普通の平日なはずだ。
しかも、夏休みも前。
そして、この時間。
なんという、最悪な偶然なのだろう。
そう、そこで鉢合わせてしまったのは、紛れもなく、大塚くんだったのだ。
「なんだぁ、覚えてないのか?オレの事」
「ツカー。やめときなってー。またあの時みたいになっちゃうよ?アイツ」
その時のグルの女子も何人かおり、数名のグループデートのようにして、ここに来ていたらしい。
あたしはあの時の記憶が思い出され、フラッシュバックしたかのように、鮮明な映像となり、目の前に現れた。
足がガタガタと震えだし、その場に立ちすくむのが精いっぱいだった。
「大輪花?知ってるやつ?」
リュウくんはあたしにそう話しかけるが、あたしは言葉を発する事ができないどころか、頷く事も、反応する事もできなかった。
リュウくんはそんなあたしの反応を見て、全てを察知したようだった。
「お、彼氏か?良いオトコ連れてんじゃん。お前にもオレ意外に彼氏なんてできるんだなぁ。ちょっと嫉妬ー」
そう小馬鹿にする声が朧気に聞こえ、それを聞いて面白がる女子達の高らかな笑い声も同時に耳に入ってきた。
「…大輪花。ちょっとここで待ってろ」
そう、突然リュウくんが、静かに怒りを露わにした声で言った。
それでも、あたしにはあくまで、優しい口調を保っていた。
「…え?」
あたしはなんだか嫌な予感がして、リュウくんを止めようと、その腕を取った。
が、すぐに振り払われてしまった。
「お前も、今はオレに近づくな。やべぇから…今」
そのやばさは、彼の顔を見れば一目瞭然だった。
目つきがいつもと全然違う。
その目は完全にすわっており、口元には微かな笑みすら浮かべていた。
口の端しか上がっていない。
誰が見ても、やばいくらいに怒りを露わにしている表情だった。
このまま放っておくと、何をしでかすかわからない。
そんな恐怖さえ、思わせるような表情だった。
それを見て初めて、あたしは、彼に恐怖を感じた。

