いよいよ本格的に暑い時期がやってくる。
この時期はあまり好きではない。
持病が悪化するのと、暑いとすぐ具合が悪くなる。
頭痛は痛み止めでなんとか乗り切ろう。
だが、汗は乗り切れる気がしない。
タオルハンカチを多めに所持し、なんとか乗り切るしかない。
制汗剤も、この時期の必需品だ。
なんて事を考えながら、今日もあたしは、聖羅ちゃんと絵摩ちゃんといっしょに移動教室を後にしようとしていた。
あの話をしてから、また二人との差がぐっと縮まったように思えた。
何も隠し事も心配事もなくなり、ただ平和な日々が送れていた。
あたしと相良くんの仲は、相変わらずの距離を保っていた。
たまに話しかけられる事はあるが、授業のノート見せろとか、落とした消しゴムを拾ってくれとか、そのレベルだった。
が、以前よりは回数は増えたと思う。
席が近いという事もあるのだろう。
あたしは嬉しさがこみ上げるのを抑えるのに必死で、つい無表情のまま、受け流してしまっていた。
内心では、もう一度、「大輪花」そう名前を呼んでくれる事を期待しながら。
でも、少なくとも今日まで、その日は訪れなかった。
変に期待させられたな…。
あたしは少しの憤りともどかしさと、そしてほんの少しの期待を胸に、毎日を過ごした。
事態が一変したのは、その後の事だった。

移動教室が終わり、みんな昼休みに向けて教室に帰っていく時だった。
あたしは個別に先生に用事を頼まれていた為、聖羅ちゃんと絵摩ちゃんとは別に教室を出る事になっていた。
あたしが、その教科で落第点スレスレの成績を取ってしまった為、先生が罰としてあたしに雑用を言いつけたのだ。
それは、すぐに終わる用事だったので、幸いそんなに遅れは取らないだろう、そうあたしは踏んで、手伝うと言ってくれた二人を先に教室に戻るように言ったのだ。
最後の生徒が出終わるまで、黒板は消せないし、机も下げられない。
あたしは根気よく、ダラダラと出ていく生徒たちを待つ事にした。
と、一人だけ立ち上がろうとしない生徒がいた。
…相良くんだ。
あたしは移動を促そうと、彼に近づいた。
「相良くん。もう、みんな行っちゃったよ。ここ、消したいから、早く…」
すると、彼はものすごい形相であたしを睨みつけた。
思わずあたしはビクッとして、その場に立ちすくんでしまった。
「…来るな…」
相良くんの息は、かなりあがっていた。
見ると、額から脂汗も流れ落ちている。
「ちょっと…相良くん?!どうしたの?痛むの?」
「・・・・・・・」
彼は苦しみでうずくまってしまい、何も言えなくなっていた。
「ちょっと待って。先生を呼んでくるから…」
あたしは咄嗟に職員室に向かおうとした。
そのあたしの手をガッと掴み、彼はあたしを睨みつけながら、息も切れ切れに言った。
「…大丈夫だから…大事に、するな…」
「でも!その体じゃ、動けないでしょ?早く病院へ…」
「誰にも言うな!」
その彼の激しい言葉に、あたしはただならぬ気迫を感じた。
相良くんは、一人で戦おうとしている。
誰も信じず、頼らず。時には、事情を知っている学校側さえも信用できない時すらある程に。
そんな時、あたしにできるのは…。
すると、彼がやっとの思いで立ち上がり、あたしの肩に手を置いた。
「…保健室まで、肩…貸せ…」
あたしは咄嗟に頷き、雑用をすべて終えるまで少し待ってもらってから、相良くんの腕を、自分の肩に回した。
と、ドキドキしている自分に気づいてしまった。
そんな事、考えている場合じゃない事は、わかっていた。
彼の、命がかかっているかも知れないのに…。
でも、自分ではどうしても止められなかった。
あたしより一回りも大きい、彼の掌。
華奢に見えるけれど、意外とがっちりしている節くれだった、腕。
今は力なくだらんとしているが、あたしを保健室まで迷わず運んでくれた、力強い、彼の腕。
筋肉質ではないが、骨ばってもいない胸が、あたしの背中にぴったりとくっついた。
それにしても、力の入っていない男の人って、結構重たい…。
それでも、保健室まではなんとか送り届けなければ。
あたしは力を振り絞って、保健室へと急いだ。
この教室と同じ階に存在する為、階段移動がない分楽だろうと思った。
が、廊下は結構長いものだ。
いや、そう感じたのかもしれない。
「もう少しだから…それまで、頑張ってね…」
あたしは必死で彼に声をかけた。
彼は、ぐったりとうなだれた顔を少しだけ上下に振って見せた。
あたしの肩にある彼の顔を見やると、色気はなく、青ざめ、熱い吐息だけが聞こえていた。
相当苦しいに違いない。
やっと、息すらしているかのように見えた。
頬だけが、少しだけ紅く染まっていた。
息が上がっているせいだろう。
あたしは、その時はそうとしか思えなかった。

やっと保健室に着き、相良くんをベットに横たわらせた。
そっとしたつもりが、あまりの重さにそっとではなくなってしまい、あたしは思わず奇声を上げてしまった。
「…うるせえ…」
「ご、ごめん!そっと寝かせるつもりが…」
相良くんはそれ以上は何も言わなかった。
いや、言えなかったのだろう。
それほど、弱ってしまっていた。
それにしても、こんなになるまで何で誰も気づかなかったのだろう?
考えてみれば不自然だ。
あたしも、例外ではないから、人の事ばかりは言えないけど…。
先生ですら、見て見ぬふりをしていたか、あるいは、授業中は寝ているふりをして気づかれないようにしていたか。
負けず嫌いで気が強い相良くんの事だから、一人でなんとかしようとしたのだろう。
けれど、あたしには気づかれてしまった。
…おや?
そういえば、あたしが授業が終わってから雑用を言いつけられていたのを、相良くんは、聞いていた…?
それで、あたしの他の生徒が出ていくのを見計らって、わざと…?
確かに、彼の「秘密」を知っているのはあたしだけだから、そう考えても不自然ではない。
でも…。
そんな事されたら、ますます期待してしまう。
自分に都合の良い考えしか浮かんでこない自分を、あたしは心より恥じた。
が、そんな淡い期待を持っていたことも、否定はできなかった。
…そして、こんな時に限って、また、保健の先生はいなかった。
お昼を学食に食べに行っている先生が多い為、不在なのはよくある事で、何ら珍しい事ではなかった。
そのうち戻ってくるだろう。
でも、カギを開けっぱなしなんて不用心だな…。
あたしは先生が不在の間、少し心配だったが、相良くんをゆっくり寝かせてあげようと思った。
でも…病院に連絡は入れておいた方が良いよね…。
先生に言うなというなら、あたしが親御さんに連絡を…。
そんな事をぐるぐると考えながら、あたしはそっと相良くんのベッドに近づいた。
「ね、相良くん。先生から、病院や親御さんに連絡してもらった方が良いと思うんだけど…」
「…薬、忘れただけ…。そんな、大事に、すんな…」
「じゃあ…少し休んで様子見る?何か持ってこようか?あ、飲み物飲める?お水なら…」
あたしは焦って早口になり、辺りをキョロキョロと見まわしていた。
と、その時。
ぎゅっ、と、あたしの手を、彼が掴んだ。
びっくりして心臓が飛び出そうになってしまい、思わず相良くんを振り返った。
「相良く…」
「…頼む…行くな。ここに…いてくれないか…」
「え、で、でも…」
「少しで…いいから…」
彼はあたしの顔を、真っすぐに見据え、そう懇願した。
その目は潤んでおり、まるで、小さい子がお母さんに、行かないで、とすがっているような光景に見えた。
あたしは動けなくなった。
「うん…わかった…」
あたしは了解し、傍の椅子に腰を下ろした。
すると、相良くんの表情がふっと和らいだ。
今まで見たことのないような優しい笑みを顔全体に称え、あたしを真っすぐに見て、言った。
「…ありがと…」
その、少年のような目を見た瞬間、あたしは、胸がきゅうん、と締め付けられるような感覚に陥った。
相良くんでも、こんなに弱気になる時があるんだ…。
いつも孤独と戦って、気丈に振舞っているように見える彼の裏側を少しだけ見られた気がした。
この顔は、きっと、あたししか知らない。
そう思うと、また一つ、秘密を共有できた気がして、嬉しくなった。
すると彼は、布団から手を出し、あたしに向けてひらひらして見せた。
「手…握って」
「…えっ!?」
「しっ!大きい声出すな。…頼むから…」
彼の悪戯っぽく、でもどことなく不安げな、力ない笑顔を見ると、とても嫌だとは言えなかった。
あたしは躊躇しながらも、言われたとおりに、その手を握った。
握った瞬間、その手を引っ張られ、あたしは彼の寝ている布団に近づく体制になってしまった。
全身が、心臓になってしまったみたいに、ドキドキして熱くなる。
彼の顔が、あたしのすぐ近くにある。
その、吐息が聞こえてしまいそうな程に。
あたしは心臓の音を聞かれまいと、息を咄嗟に止めた。
「…かわいいな」
そっとつぶやくように、相良くんがあたしの目を見て言った。
もう、あたしは何も考えられなくなった。
全思考が停止してしまったかのように、一ミリも動けなくなった。
運動機能までもが、停止してしまったようだ。
「一緒に…寝て?」
「はぁ!?」
「だから!大きな声を出すな!」
静かに、でも怒りを露わにした口調で、彼があたしに言う。
「で、でもそれはちょっと…」
あまりにも不謹慎だろう!
学校で、しかも保健室で。
誰がいつ入ってくるかわからない。
それに、先生も戻ってくるかもしれない。
そんな危険な状態なのに!
それに…相良くんは、今、それどころじゃないはずだ。
息は相変わらず上がっているし、顔色は先ほどよりは少しは良くなったものの、まだまだ安心できる状態ではない。
それなのに、この人は、一体何を…。
あたしは、働かない頭をフル回転させ、そんなどうしようもない心配ばかりしていた。
正確には、それを現実だと、どうしても思えなかったので、そういう思考にすり替えて安心しようとしていたのかも知れない。
あたしの顔は、きっと真っ赤だったのだろう。
相良くんはクスっと笑うと、
「こんなとこじゃ何もしない。大丈夫。ちょっと…安心させてほしいだけ…」
力なくそうあたしに言う彼を見て、そうしなければならないような、そうすれば彼が救われるような、不思議な感覚に陥った。
男の人の手を握る事もおろか、一緒に寝るなんて、初めての事だ。
お父さん以来だろう。
でも…。
今、目の前にいるのは、弱り切った、等身大の、クラスメイトの男の子。
あたしの…好きな人。
彼は、それに気づいているのだろうか?
気づいていて、それで、あたしをからかって楽しんでいるのだろうか?
ふと、中学の時のあの、嫌な恋の思い出が脳裏をよぎった。
でも、相良くんはきっと違う。
そう信じたい自分もいたし、直感でそう、感じている部分もあった。
「…誰か来るまで、だよ…?」
「…うん、わかった。ありがと」
あたしは、上靴を脱いで、そっとベッドに横たわった。
手を握ったまま、彼はあたしの顔を見て、少年のようににっこりした。
「…安心する」
「…そう?」
「うん。すげー、安心…」
「少し…眠ったら?」
「嫌だ。目が覚めた時にいなかったら…」
「そういう、思い出でもあるの?」
「…小さい頃の話だけどな」
「そう、だったんだ…」
小声でのそんな会話は、あたしと彼の距離を更に近いものにした。
確実に、あたしは、今までより、彼に近づく事ができている。
そう、実感していた。
「だから…寝たくない」
子供のように駄々をこねる彼を、不本意にも、あたしは、可愛いな、と思った。
気が付くと、思わず、彼の髪を撫でていた。
金髪の、柔らかい、髪の毛。
触るとほんのり、シャンプーの良い香りが漂った。
「もう少しだけ…大輪花…」
その瞬間、あたしの心臓は跳ね上がった。
自分でも、はっきりとわかった。
体が、びくっと動いた。