秀次は秀俊が小早川家に養子と
して出されたことを知ると何か嫌
な胸騒ぎを感じた。また、秀吉と
家康が頻繁に会い、そのたびに五
奉行に指示を出すことで、自分が
政務の主導権を握れないことにも
いら立っていた。そんな時、秀吉
が再度、朝鮮出兵を計画している
ことが知れ渡り、諸大名から秀次
のもとに不満が寄せられた。しか
しその計画は秀次には知らされて
いなかった。さらにその計画では
秀次も出兵させられることになっ
ていると聞き、秀吉に不信感を抱
いた。
 そんなことはおかまいなしの秀
吉は完成した伏見城に捨丸を移さ
せた。そして年が明けた文禄四年
(一五九五年)一月には今も朝鮮
で日本の城を守備している将兵に
城の周辺を開墾して耕作地にし、
兵糧の確保に努めるように命じ
た。
 秀次は秀吉の朝鮮出兵を思い止
まらせようと朝廷に働きかけた。
そんな時に大坂城から多額の金銀
が何者かに盗難される事件が起き
た。この事件は去年、名高い盗賊
の石川五右衛門が子と共に処刑さ
れたことに反発した残党の仕業で
はないかということで秀吉は秀次
に治安を良くするように叱責した
だけでおさまった。しかしその
後、秀吉は家康の情報から秀次が
朝廷に多額の献金をしていること
を知ると秀次に不信感を抱くよう
になった。

 同年四月の初めに捨丸が病気に
なり、秀次が伏見城に見舞いに行
くと秀吉は不機嫌な顔をした。秀
次も秀吉に目を合わせることがで
きず、会話することもなく去っ
た。その六日後、秀次の末弟、秀
保が変死する事件が起きた。この
ことで秀吉と秀次の決裂は決定的
となった。これをすぐに察知した
家康は情勢不安になることを見越
して武蔵、江戸に戻った。
 しばらく静かな対立が続き、沈
黙を破って先に動いたのは秀吉
だった。