星の炉は、創始、夜空を照らす灯台として造られたという。だが邪鬼の呪いによって火を禁じられ、長い間ただ虚しく天を巡っていた。それが今、火種たるあたしを中に入れる為、誰の目にも付かぬよう夜更けの闇を選び、天河の畔に下ろされている。
初めて間近で目にしたそれは、円い氷の塊に見えた。触れてみて、ようやく星石で造られたものと知れる。冷たく凍えきった炉だ。大きさこそ人の背丈ほどあるが、それが特別なものとは感じられない。ごくありきたりな、どこにでもありそうな印象の、透明な星石の塊だ。けれどその平凡さが気に入った。命尽きるまで過ごす場所として悪くはない。なによりあたしらしい。
あたしは静かに息を吐き、右の指先を小刀で軽く切り裂くと、滴る血で星の炉の外壁に自分の真名を刻んだ。
真名とは、己の名の意味を−即ち己自身を−表す呪紋。天狼ならば、天駆ける蒼き狼。晶鵠ならば、星の煌きを放つ白鳥。そしてあたしは赤い蠍だ。
血と火の色をした毒虫を意味する名とは、名付け親は実にいい趣味をしている。あるいは、あたしには相応しいと見抜いていたのだろうか。何にせよ、あたしは自分の名前を、どうしてか嫌いにはならなかった。
血で真名を刻んだことによって、星の炉とあたしは一体と化す。星の炉の外壁へ触れた手に力を込めると、何の抵抗もなく硬い水晶の塊の中へ入り込む。
中は凍えるほど静かだった。当然だろう。星の炉が通すのは、中で灯される焔の熱、光と影、そして一体となったあたしだけだ。それ以外は音も物も何一つ通さない。届かない。
そのまま星の炉の中心へと向かい掛けて、あたしは思わず足を止めた。振り向かなくてもわかる。星の炉のすぐ傍に天狼が来ている。天河の放つ淡い光が、背後から長い影を作る。
こんなときまで二人で来なくていいのに。
寄り添うように伸びる二つの影から目を背け、あたしは唇を皮肉気に歪めた。
振り向くことはできなかった。笑顔はもう使い果たしてしまった。昼間、見送らなくていいと別れを告げて来た時に。
振り向いてしまったら、きっと言ってしまう。星の炉に阻まれて音が届かなくても、指先が、唇が、視線が、あたしの全身がきっと叫んでしまう。ずっと隠してきた真実を。だから振り向けない、振り向いてはいけない。
言い聞かせる胸の内に、もう一つの声が囁く。言ってしまえばいい。何もかも曝け出してしまえばいい。そうすれば、あいつはあたしを忘れない。
あいつの心にあたしは永遠に刻み付けられる。決して消えない、醜い火傷の痕のように。
心が真っ二つに引き千切られる。世界なんてどうなったって構わない。この痛みが永遠に続くとしても、あいつのそばで生きていられればそれでいい。
それができないのなら、せめて、あいつにあたしを残したい。消えてしまいたくない。
ただ言うだけでいい。ずっと抑えてきたものを、ただ吐き出せばいい。そうすればたった一つのあたしの望みは叶うんだ。
歪めた唇が、震えて微かに開く。視線が僅か、背後に向かう。その刹那。
『……火辰』
声はしなくとも、あいつがあたしの名を呼ぶのが聞こえた。止める間もなく、鼓動があいつを呼ぶ。
天狼。
堪え切れずに、想いがほとばしりそうになる。けれど、まだ耳元で響いているあいつの声が、砕け散る寸前のあたしの心を繋いだ。
喉が嗄れるほど叫んでも、絶対にあいつの耳には届かない。そう思いはしたものの、それでもあたしは声を殺し、前を向いたまま唇だけを動かした。
「………、………………………」
それから右手を上げ、ひらひらと軽く横に振る。ごく自然に、何気ないふうに、再会を約した別れの時のように。
そうして私を宿した星の炉は、静かに夜空へと昇っていった。
肉の一片一片、記憶のひとかけひとかけが焔に変わってゆく。吐息の一つ一つが、囁きのひとつひとつが。
ただ一つ残った心臓がまだ、じりじりと焦げ付くような火を宿している。あたしは苦痛よりもむしろ歓喜の声を上げていた。
あたしは火に焼かれているんじゃない。あたしが焔になっているんだ。行き場のなかった想いが、封じていた心が、まるで解放されてゆくかのよう。
天狼。
いつかこの焔が消えたなら。いつか、この心臓を焦がす燠火も埋火も消え去って、総てが灰燼となり、それすらも風に飛ばされて散ったなら。あの時殺した声で紡いだ嘘を真実に変え、あなたに逢いにゆけるだろう。
『ずっと、あんたが好きだった。』
そうして、あたしはまた火を点す。
初めて間近で目にしたそれは、円い氷の塊に見えた。触れてみて、ようやく星石で造られたものと知れる。冷たく凍えきった炉だ。大きさこそ人の背丈ほどあるが、それが特別なものとは感じられない。ごくありきたりな、どこにでもありそうな印象の、透明な星石の塊だ。けれどその平凡さが気に入った。命尽きるまで過ごす場所として悪くはない。なによりあたしらしい。
あたしは静かに息を吐き、右の指先を小刀で軽く切り裂くと、滴る血で星の炉の外壁に自分の真名を刻んだ。
真名とは、己の名の意味を−即ち己自身を−表す呪紋。天狼ならば、天駆ける蒼き狼。晶鵠ならば、星の煌きを放つ白鳥。そしてあたしは赤い蠍だ。
血と火の色をした毒虫を意味する名とは、名付け親は実にいい趣味をしている。あるいは、あたしには相応しいと見抜いていたのだろうか。何にせよ、あたしは自分の名前を、どうしてか嫌いにはならなかった。
血で真名を刻んだことによって、星の炉とあたしは一体と化す。星の炉の外壁へ触れた手に力を込めると、何の抵抗もなく硬い水晶の塊の中へ入り込む。
中は凍えるほど静かだった。当然だろう。星の炉が通すのは、中で灯される焔の熱、光と影、そして一体となったあたしだけだ。それ以外は音も物も何一つ通さない。届かない。
そのまま星の炉の中心へと向かい掛けて、あたしは思わず足を止めた。振り向かなくてもわかる。星の炉のすぐ傍に天狼が来ている。天河の放つ淡い光が、背後から長い影を作る。
こんなときまで二人で来なくていいのに。
寄り添うように伸びる二つの影から目を背け、あたしは唇を皮肉気に歪めた。
振り向くことはできなかった。笑顔はもう使い果たしてしまった。昼間、見送らなくていいと別れを告げて来た時に。
振り向いてしまったら、きっと言ってしまう。星の炉に阻まれて音が届かなくても、指先が、唇が、視線が、あたしの全身がきっと叫んでしまう。ずっと隠してきた真実を。だから振り向けない、振り向いてはいけない。
言い聞かせる胸の内に、もう一つの声が囁く。言ってしまえばいい。何もかも曝け出してしまえばいい。そうすれば、あいつはあたしを忘れない。
あいつの心にあたしは永遠に刻み付けられる。決して消えない、醜い火傷の痕のように。
心が真っ二つに引き千切られる。世界なんてどうなったって構わない。この痛みが永遠に続くとしても、あいつのそばで生きていられればそれでいい。
それができないのなら、せめて、あいつにあたしを残したい。消えてしまいたくない。
ただ言うだけでいい。ずっと抑えてきたものを、ただ吐き出せばいい。そうすればたった一つのあたしの望みは叶うんだ。
歪めた唇が、震えて微かに開く。視線が僅か、背後に向かう。その刹那。
『……火辰』
声はしなくとも、あいつがあたしの名を呼ぶのが聞こえた。止める間もなく、鼓動があいつを呼ぶ。
天狼。
堪え切れずに、想いがほとばしりそうになる。けれど、まだ耳元で響いているあいつの声が、砕け散る寸前のあたしの心を繋いだ。
喉が嗄れるほど叫んでも、絶対にあいつの耳には届かない。そう思いはしたものの、それでもあたしは声を殺し、前を向いたまま唇だけを動かした。
「………、………………………」
それから右手を上げ、ひらひらと軽く横に振る。ごく自然に、何気ないふうに、再会を約した別れの時のように。
そうして私を宿した星の炉は、静かに夜空へと昇っていった。
肉の一片一片、記憶のひとかけひとかけが焔に変わってゆく。吐息の一つ一つが、囁きのひとつひとつが。
ただ一つ残った心臓がまだ、じりじりと焦げ付くような火を宿している。あたしは苦痛よりもむしろ歓喜の声を上げていた。
あたしは火に焼かれているんじゃない。あたしが焔になっているんだ。行き場のなかった想いが、封じていた心が、まるで解放されてゆくかのよう。
天狼。
いつかこの焔が消えたなら。いつか、この心臓を焦がす燠火も埋火も消え去って、総てが灰燼となり、それすらも風に飛ばされて散ったなら。あの時殺した声で紡いだ嘘を真実に変え、あなたに逢いにゆけるだろう。
『ずっと、あんたが好きだった。』
そうして、あたしはまた火を点す。
