「それで? 千円でどんな仕事をしているわけ? 部屋の掃除? 在庫データも入力出来ず、シフト管理も出来ない。それで時給に見合ったを仕事してると思っているの?」

 久我さんは冷たい視線を向け、私を一瞥する。
 私は喉まで込み上げてきた気持ちをぐっと我慢して、頭を下げた。

「すみません。分からないので……教えてください」

 膝の前で手のひらをぎゅっと握りしめる。
 あんな言われ方して、悔しかった。だけど、もっと悔しいのは言い返せない私。
 電話番して、雑用して、ご飯代まで出してもらって、それで時給千円。その甘い環境にどっぷりつかって甘えていた。確かに、私は時給に見合う仕事をしていたのかと聞かれれば、胸を張って答えることができない。
 頭を下げたまま、私は久我さんの出方を待つ。
 それなのに、何も言わずに床に見えていた久我さんの足は社長の机へと向きを変える。
 えっ……、なにも言わないの?
 その行動の意味を計りかねて、恐る恐る顔を上げると、久我さんは立ったまま何かを書いている。
 私はどうしていいか分からなくて、首をかしげる。すると、何か書いてたメモを私の方に差し出した。
 受け取っていいのか迷っていると、久我さんは私の机の上にそのメモを置いて、背中を向けながら言った。

「シフト票のやり方を書いたから、それ見てやって」

 そう言ったっきり、また仕事を再開する久我さん。
 私はそんな久我さんを呆然と見つめ、座ってメモに目を通す。そこには丁寧な文字でシフト票の攻略方が記されていた。
 私はマウスを握り、メモに書かれている通りにファイルを開き、作業に取り掛かる。
 カチ、カチ、カチ……
 キーボードを打つ音と、時々めくれる紙の音だけが静寂した室内に響く。
 夢中になってシフト票の四分の三ほどを入力し終えた頃、ふっと指を止めると、さっき喉まで込み上げてきたモノが急激に込み上げてくる。
 うぅ……
 さっきは我慢できたのに。自分の不甲斐なさに涙が込み上げ、視界がぼやける。
 やだ、こんなとこで泣きたくない。ただでさえ、仕事ができないダメバイトだって久我さんに思われているのに、こんなとこで泣いたら、呆れられる……そんなのは、嫌だ!
 私は必死に涙をこらえて、シフト票の続きにとりかかったんだけど。
 一度溢れたモノはそうそう簡単には止まらなくて、自分の意志を無視し、勝手にポロポロと涙がこぼれおちる。
 どうにか泣いていることに気づかれないように、嗚咽を飲み込み、流れる涙を手の甲で拭う。どうせ久我さんは私の方なんか見ずに仕事に集中してる。声を押し殺せば、気付かれない自信はあった。
 負けず嫌いだけど、ちょっとしたことですぐに泣いてしまうのは私の悪いところだと思ってる。だけど、自分の意志とは関係なく込み上げてくるんだもの。どうしようもないでしょ。

「うっ……」

 堪え切れなくて声が出て、慌てて口元に手を当てた。その時。
 目の前に差し出された、ブルーのストライプのハンカチ。
 見上げると、私の机の横に久我さんが立ってて、私から視線をそらしたその表情は、不愉快そうに眉間に深い皺を刻んでいた。
 仕事ができない上に泣くなら、帰れ!
 そんなことを言われるかと思ったのに……

「ここに、他の書類のやり方も書きました……さっきはすみませんでした、言いすぎました。確かに、長田さんの言う通り、やったことのない仕事をいきなりやれというのは無茶苦茶でした、反省しています」

 そう言って頭を下げた久我さんの頬は僅かにピンク色で。
 あんなに無茶苦茶なこと言って怖かったのに、そんな素直に謝られたら、私の方がどうしていいか分からなくなってしまう。
 こんな風に謝れてしまうなんて、久我さんって大人なんだな――そう実感した。
 それがなんだか悔しくて――


  ※


「で、どーなのよバイトは?」

 大学の学食で昼食を食べながら、親友のミチルが聞く。

「どーもこーもないわよ……」

 あの謝罪の後、久我さんも私も何事もなかったように仕事をして帰った。だけど……

「今までの仕事とはぜんぜん違うことやらされて、大変よー」

 私はテーブルに突っ伏しながら言って、横を向いて窓から見える空を見つめる。空は、あの時久我さんが差し出したハンカチのように透き通るブルー。その色を思い出すと、なんだか胸がくすぐったくて。

「事務とは名ばかり。食材の発注から店舗との連絡係、在庫管理、従業員のシフト管理、給料計算、社長(代理)のスケジュール管理、事務所の掃除エトセトラ……なんでもやります、雑用係! から経理、社長秘書! ってカンジ?」

 私は苦笑しながら言う。

「大変そうね~」

「大変だよ……」

 最初はやったことのない仕事を押し付けられて腹立たしかったけど、今はいろんな仕事をすることで、自分のスキルアップにもなるし、将来のことを考えるいい機会にもなっていると思う。

「ふーん、そう言う割には、顔がにやついてるけど?」

 ミチルに言われて、慌てて顔を隠すように手のひらを頬にあてる。

「そんなことないよ。ほんとに大変なんだから。社長代理は、インケンだし……」

 そう。あの謝罪の後、少しは優しくなったかと思ったら全然! インケンなのは相変わらずで、ちょっとしたミスも目ざとく見つけてズタボロにけなされ……私の心は傷だらけよ。

「あんな奴、顔がいいだけで性格は最悪なんだから!」

「ふーん。じゃあ、そんなバイトはさっさとやめて、もっと割のいいバイトにすれば?」

「そっ、それは……」

「だって、食事つきに惹かれて始めたのに、社長代理になってから、食事出なくなったってぼやいてたじゃん?」

「それは……」

 そーなのだ! 社長代理になってから、食事代がでなくなっちゃったんだよね……
 私はなによりも食べることが大好きで、“食事つき”――その甘い誘惑に惹かれて始めたバイトだ。飲食店の事務っていうくらいだから、レストランの賄い食とかを期待していたんだけど、実態は、レストランと事務所の場所が離れてるからそんなことはなくて、食事の時間になると社長がポケットマネーでご飯代をくれて、お弁当を買いにいくのだ。それでも実家を出て一人暮らしをしてる貧乏学生にとっては食事代が出るだけありがたかったのだ。それなのに……
 久我さんは食事代を出してくれないどころか、食事も摂らない人なんだよ! ご飯食べないで平気なんて、ほんと信じられない!
 仕方ないから私は、一人、自腹切って安いコンビニ弁当さ。
 社長代理がインケン男の上に、食事代が出ないなんて、このバイトの魅力は半減だけど……私、社長のこと好きなんだよね。だから、社長が入院中に辞めるなんて、考えられない。早く社長がよくなることを祈って、社長が帰ってくるまで、絶対やめたりなんかしないんだから!


  ※


 そう決心したのは今日の昼間だけど……
 私、この仕事、続ける自信なくなって来ちゃった……

「聞いているんですか?」

 ぴしゃんっと言い放った声に、びくりと体を震わせる。

「あっ、はい。聞いてます……」

 そう言った私の声のトーンは下がりまくり。

「ここ、間違っているので訂正して下さい。それから、ここも、ここも。これはやり直し。ここはこの間、違うと言ったでしょ。何度も同じことを指摘させないで下さい」

 すごい剣幕で、私の机の上に書類を置いていく久我さん。そのすべてが、私が今日のバイト時間をフルに使って仕上げた仕事でさっき、社長の机の“提出ボックス”に入れたばかりなのに……
 私が入れると同時に、久我さんは作業していた手を止め素早く目を通し、私の机のとこまで来て、ミスを指摘し出したのだ。

「はい、わかりました……」

 ぼそっと小さな声で返事をして、インケン……聞こえないくらいの声で囁いたのに。

「なんですか?」

 ぴくりと米神を引きつらせ、久我さんが私を見つめる。その表情は極甘の眩しいほどの笑顔なんだけど、声は怒っているのがわかる。

「今、インケン……って言いました?」

 ぴゃあっ。地獄耳……!

「今、地獄耳って思いましたね……?」

 うっ……。私は体を縮込ませて目を閉じる。
 なにかとんでもない反撃をされると思ったのに――久我さんの反応は予想外のものだった。

「はぁー」

 大きなため息をつくと素早く席に戻り、てきぱきと仕事を片づけて行く。

「別にいいですけどね、あなたにどう思われようと」

 呟くように言ったその言葉に、胸がちくりと痛む。
 久我さん、怒っている時ってほんと分かりやすい。普段はちゃんと長田さんって名前で呼んでくれるのに、機嫌が悪いとあなたとか君とかなんだよね。
 別にさ、私だって、久我さんと仲良しごっこがしたいわけじゃないけど、どうせなら、気持ち良く仕事したいじゃない? 一緒に事務所で仕事するなら、仲良く、したいじゃない……
 それなのに、いちいち言うことが嫌味くさいっていうか、ネチネチとインケンでさ。
 なんなのよ、久我さんって……