部屋……間違ってないよね?
 そう思って自分の席に座っている私は、部屋の中をぐるりと見回す。机の位置も棚の位置も机の上に置かれた文具も、何もかもが一昨日見た事務所のままだった――社長の席に座る人物を除けば。


  ※


 昨日はずっと大学の講義があってバイトは休みで、一日ぶりにバイトに来たら、事務所に知らない人がいたのだ。
 歳は二十代前半くらい、きりっとした二重、通った鼻梁、薄く形の良い唇、そして一番目を引くのは、蜂蜜色の羨ましいくらいサラサラの髪。芸能人にも負けないくらいのイケメンが、一昨日までは社長がいた席――私の斜め横の席に座っている。
 あまりにもじぃーと見すぎていたからか、イケメンが手は動かしながら、机の上の書類から視線だけを私に向けた。

「なんですか? なにか分からないことでも?」

「いえ、あの……」

 口ごもった私の机の上には、どっさりとよくわからない書類が山積みにされている。

「社長は……今日はいらっしゃらないのですか?」

 そう言った私を、中指で鼻に当たる眼鏡を押し上げながらジロリと見据えた。
 キィー。音を立てながら椅子の向きを変えて立ちあがったイケメンは、細身の黒いパンツに白いシャツを着て、スーツじゃないのに洗礼された美しさが漂っている。

「自己紹介がまだでしたね。僕は久我 翔真といいます。社長――久我 銀司の長男です。社長は体調を崩して入院することになったので、しばらくは僕が社長代理を務めます。よろしく」

 にこりと、天使も逃げ出すような妖しく麗しい微笑みで手を差しのべられて、不覚にもドキリとしてしまった。
 社長、そーいえば血糖値が高めだからって、いつも薬飲んでたな。そんなことを思い出しながら立ちあがり、出された手を握って挨拶する。

「はじめまして、バイトの長田 葵生といいます。よろしくお願いします」

「長田さんのことは社長から聞いています。いつも社長と二人で大変だったでしょう?」

 くすりと笑って久我さんが言う。

「いえ、そんなことは。社長にはとてもよくして頂いてます」

「そう……」

 首をかしげながら私を見る久我さんは、なんだか目が笑ってなくて……怖い。

「じゃあ、早速で悪いんだけど、その机に置いてある書類整理よろしくね」

 言いながら席に戻り、時間が惜しいというようにてきぱきと仕事を再開する久我さんに、私は言われたことの意味が分からなくて目を見開く。

「あの……」

「なんですか?」

 うるさい――言葉にしてないけど、そう久我さんの周りの空気が語ってて、私の方を見ずに聞き返した。
 私はゴクリと唾を飲み込み、自分の机の上に置かれた書類を一つ持ち上げて言う。

「この書類ってどうしたらいいんですか……?」

 その瞬間――バキンって、何かが壊れるような音が室内に響く。
 書類に視線を向けたままだった久我さんが立ちつくした私をゆっくりと見上げ……がばっと勢いよく立ち上がると私に近づき、持っていた書類をひったくった。素早く目を通し、机の上にばんっと置いて私を見た久我さんは、笑顔だけどやっぱり目は笑ってなくて、すごく怖い。
 こんなことも出来ないのか――そう、目が皮肉気に語っている。

「これは、先月の各店の在庫一覧表です。パソコンのここに在庫データがあるので、数字を入力して、在庫の金額を出して下さい」

 言いながら私のパソコンのマウスを動かして、在庫データを開く。

「いいですか?」

 聞かれているはずなのに。
 出来ないなんて言わないよな、あ?
 ――そんな威圧感があって、私は慌てて頷いた。

「はっ、はい……」

「それならば、早く仕事にとりかかって。出来た書類はココに置いて下さい」

 そう言って久我さんは、社長の机の上に置かれた一つのボックスを指さして、すぐに席に戻っていった。
 私は言われたとおりに、パソコンのデータを開き数字を入力し始めた。


 だけどさ、私は一言、物申したい!
 こんな在庫データなんて、今までやったことないんだもの、わからなくて当然でしょ。それなのに、なに? こんなことも出来ないのかって、鼻で笑って人のこと見下して馬鹿にして。ちょっとイケメンだからってなによ、偉そうに。
 怒りにまかせて、すごいスピードでデータを入力していく。自慢じゃないけど、タイピングのスピードには自信があるのよね。まあ、普段の仕事は食材の発注かけて、あとは雑用だもんね。机にパソコンがあっても滅多に使わないし、ましてタイピングのスピードが役に立つ仕事なんてなかったけど。
 入力し終わったデータを印刷し、言われたボックスに入れる。
 久我さんはそんな私を、ちらりとも見ずに仕事に集中している。
 私は次の仕事に取り掛かるべく、書類の山に手を伸ばす。掴んだ書類にはこう書かれている――○○××五月シフト票。つまり、店舗の社員、アルバイト全員のシフト票が束ねてあるんだけど……これを一体どうしろと?
 謎の物体に首を傾げ、仕方なく、久我さんに声をかける。

「すみません。コレなんですけど……」

 そう言った私を、久我さんは人も殺せるんじゃないかってくらい凶悪な目つきでギロリと見上げる。

「君は、仕事の度にいちいち聞かないと何もできないのか?」

 吐き出された冷たい声。
 さっきだって目こそ笑ってなかったけど、声だけ聞いたらとても柔らかい雰囲気で苛立っているのなんか分からないくらいだったのに、今は違う。あきらかに声に怒気をはらんでいる――
 なんで? なんで、私が初対面の人にここまで怒られないといけないの!?
 私はカァーと頭に血がのぼって、立ち上がりながらばんっと机を叩いて叫んでいた。

「そんなこと言われても、やったこともない仕事をいきなり説明もなしにやれって言われても、出来ま――」

「出来ない?」

 私の言葉が言い終わる前に久我さんが言った。

「君、いくら時給もらっているの?」

「千円ですけど」

 質問の意図が読めなくて、渋々答える。

「それで? 千円でどんな仕事をしているわけ? 部屋の掃除? 在庫データも入力出来ず、シフト管理も出来ない。それで時給に見合った仕事をしてると思っているの?」

 確かに部屋の掃除もしてるけど、それだけじゃないし……! そう言いたかったのに、言えなかった。
 悔しいけど、久我さんの言っていることが正論に聞こえて、ギリリと唇をかみしめた。


  ※


 バイト情報誌で見つけた“食事付き”という条件に引かれて始めた飲食店の事務のバイト。
 事務とは名ばかりで、食材の発注をして後は事務所に待機。電話を受けたり掃除したり、そんな雑用をこなすだけで仕事内容はとっても簡単。大学の講義との兼ね合いでシフトの自由はきくし、ご飯代は出るし、狭いワンルームで父親と同い年の社長と二人っきりってのは多少……最初は気まずかったけど、社長は気さくな人で慣れるといろんなことを教えてくれて楽しいし。
 そのことを友達に話したら。

「葵生、そんなうまい話あるわけないじゃん、ぜったいなんか落とし穴があるんだよ。気をつけな!」

 そう言われたけど。

「世の中、おいしい話もあるんだよー」

 って、楽観していたの、昨日までは。それなのに、この状況――


 優しい社長は入院しちゃって、代わりに来たのはイケメンだけど仕事には厳しい人。
 今までやったことのない仕事を押し付けられて、私のバイト生活はどーなっちゃうのぉ!?