アキオ・トライシクル~心理学入門編~

 彰夫は玄関で表札を確認したが、自治体の交付する住居表示は貼られていたが、表札は古く、雨風にさらされて、そこに書かれた文字が判別できなかった。ここが本当に好美の実家なのかは、確認しようがない。しばらく家の周りを廻りながら、中の様子を伺った。人影はなかった。表木戸にもどりさてどうしたものかと考えあぐねていた時だった。
「君、私の家になんか用か。」
 振り返ってみると、風呂敷に包まれた一升瓶を手に下げて、初老の男が立っていた。彰夫は男の語気を荒めた誰何に、慌てて手に持ったアイパッドを落としそうになった。
「すみません…。お尋ねしますが、こちらの家の方ですか?」
「そうだが…何か?」
 こわもての男は、その眉間にさらに深いしわを刻んで彰夫を睨み続ける。
「あの…こちらは、大塚さんのお宅でしょうか?」
「ちがうな。」
「そうですか…。失礼いたしました。」
 彰夫は頭を下げた。男の視線を背中に感じながら、玄関から離れかけたが、思いなおして振りかえる。
「あの…。失礼ですが、以前大塚さんと言う方がここに住んでいて、引っ越されたということはありませんか?」
「ないな。君が生まれる遥か昔。じいちゃんの時代からわたしはここに住んでいる。」
「そうですか…失礼いたしました。」
 再び頭を下げる彰夫。その時、隣の家の玄関が開いて、女性が出てきた。
「あら、高井さん。お買いもの?」
「ええ、注文していた日本酒が入荷したもんでね。」
 彰夫へ向けていたこわもてを崩して、隣人に笑顔で答える男。彰夫は、そのふたりのやり取りを聞いてハッとした。
「ちょっと待ってください。こちらのお宅は高井さんというんですか?」
「なんだね君。いきなり失礼だぞ…。確かに高井だがそれがどうした?」
「もしかして…高井テルミさんと言う方はおられますか?」
 男は、一瞬黙って警戒心を強め、彰夫を睨む。
「私の娘だが、君はいったい誰だ?」
 彰夫は頭を下げると、逃げるようにその場を離れた。男の答えに、再び背中から浴びせられた男の言葉に気づけないほど、頭が混乱していた。

 歩いて、歩いているうちに彰夫は奈良公園へ来ていた。頭の中が真っ白でどうやってここまで来たかまったく憶えていないのだが、妙に酒粕の匂いだけが五感の記憶に残っている。べったら漬けの店を何件も通り越したせいだろうか。