アキオ・トライシクル~心理学入門編~

 彰夫は好美が言っている意味がわからなかった。
「それにしても、たくさん買って来たんですね。」
 彰夫が見ると、枕元のデスクにミネラルウォーターのペットボトルが並んでいた。好美はキャップが開いているボトルを指差しながら言った。
「病人のうちは、出来ればボトルから直接飲まないで、ちゃんとコップに移して飲んだ方が良いですよ。ああ、それからゆうべ着替えたパジャマと下着は、洗濯しておきました。汗でぐっしょりの服をソファに放っておいたら、カビが生えちゃいますから気をつけてね。…あら、やだ。わたしお母さんみたいなこと言ってますね。ごめんなさい。」
 自分の言ったことに、自分で笑いながらキッチンに戻る好美。その後ろ姿を見ながら、彰夫は自分に水を飲ませ、汗でぬれたパジャマを着換えさせたのは、いったい誰だったんだろうと考えた。よくしゃべる好美と自分のために水を買ってきたテルミ。彰夫は自分にとってのふたりの印象が、変わりつつあることを感じていた。

 彰夫が回復してから1カ月、テルミが現れることが無かった。宅建の試験が近づいていたので、その準備がゆっくりと出来て助かったが、1ヶ月も過ぎると、いつしかテルミが現れてこないことが寂しいと感じている自分に気づいて驚いた。粗野で、自己中心的で、底意地の悪いテルミではあるが、黒い瞳の奥にあった母性は、本当に夢だったのだろうか。
 一方、テルミが現れてこない分、好美との距離は急激に縮まった。外では気軽に腕を組んでくるし、家では読書している彰夫の肩に寄り添ってきたりもした。また、積極的に自分の意見を言う傾向が現れて、彰夫にゴミを出すように指示したり、夕飯も何が食べたいとはっきりと言うようになった。もっとも、そんな積極的な姿勢は、もっぱら彰夫のみに示されているようではあったが、以前の好美では考えられないことだ。
 宅建の試験がある日曜の朝、出かけようとドアの前に立つ彰夫。しかし、また失敗したらという不安で、部屋からの一歩をなかなか踏み出すことができない。
「彰夫さん、どうしたの。」
 好美は黙って立っている彰夫の肩に手をまわし、こちらに向かせた。
「いや、別に…。試験行ってくるよ。」
 そう答える彰夫の髪を、好美は指で整えた。
「どうしたの、そんな暗い顔して…。自信が無いの?」
「そんなことないよ…。とにかく行ってくるから。」