その日は、春の気配を残した涼しさだった。
少女はお昼過ぎ、軽い散歩に出かけた。
歩いてすぐの林道。
真夏には蚊で溢れる恐ろしい場所だったけれど、今はまだ、夏らしい熱をやわらげてくれる。
冬には寂しく幹しかなかった木々は、春に芽吹き、青々とした葉を伸ばしていた。
少女はこの林道を気に入っていた。
たった500mもない道だけれど、コンクリートだらけの街中で、手軽に自然を感じられる場所だった。
自転車にのって通勤する人がいる。
飼い主とペットの犬が散歩途中に、ベンチで休んでいる。
首にタオルを巻き、ジャージ姿で走っていく人がいる。
おじいさんと孫らしき女の子が笑い合っている。
その林道は、この街の人の生活に溶け込んでいる。
朝、昼、夜、と姿を変えず、街の人の生活を垣間見せる。
少女はそれを眺めるのが好きだった。
同じ街に住んでいる人達ーーきっと一生関わる事のない他人達《ひとたち》の日常が交差する場所。
同じ場所にいながら、異なる時を過ごし、お互いを仕切る透明な膜だけがすれ違い、触れ合い、また離れていく。
それらを眺め、その日常の中身を想像するだけで、なんだか胸を満たす嬉しさが湧くのだった。
林道は多少くねりつつも真っ直ぐ走っている。
しかし、その両脇には林が広がっており、その中にも細い土だけの道があった。
少女は林道を外れ、一つの小道に足を進めた。
林道で他人《ひと》の日常を垣間見るのも好きだが、林の中で一人、静かに空を見上げるのも好きだった。
小道を進み、人の声が遠のくと、静かにすっと上を見た。
風に揺れる葉っぱがサワサワと鳴る。
落ちてくる木漏れ日はまだ鋭く眩しく、太陽は中天からそれほど下がっていない。
緑の隙間から見える水色は透き通っていて、素敵に晴れていた。
少女は中々に上機嫌だった。
気温は最適。
空は綺麗で、人々は楽しげに暮らしている。
緑は瑞々しく、空気は澄んでいる。
ほぉー・・・、と少女はいっぱいになった胸から息を吐き出した。
そして、満足して帰ろうと身を翻した。
その時、視界の端に何かが映った。
ん?、と動きを止め、周りを見渡す。
すると、林の中に、黒いスーツを来た男がいた。
珍しい事ではない。
男は明らかに道がない、草の中に立っていた。
それは少し珍しい事だ。
--自分なら絶対にしない。
こんな街中の林道にだって、何か危ない虫はいるのに、と少女は思った。
少女は首を傾げた。
何故自分は気になったのか。
男を見つめたまま、少女はじっと考え込んだ。
男は少女に見られてる事など全く気づかずに、前方の空間を撫でるように手を上下した。
--何してるんだろ。
少女はこてりと首を反対側に傾けて、男の行動を不思議に思った。
周囲を少し見回す。
先程自分が見ていた方向から同じように振り向いて、少女は気づいた。
--いきなり、黒が出て来たんだ。
先程まで、あの男はいなかった。
少女が空を見上げていたのはほんの数分で、帰ろうと身を翻すまで、視界には誰もいなかったのだ。
しかし、振り向いたその一瞬に、黒が現れた。
男は背広から取り出したスマホらしき機械を覗いている。
それで前方の景色を撮影したりした。
少女は男の視線の先には何があるのかとその方向を見たが、ただ林が広がるのみ。
--そうだ。
--この人はいきなり現れたんだ。
--まるで瞬間移動みたいに。
人が来た事に気づかなかったのではない。
なぜなら、木々のざわめきと地面の草の擦れる音は全く違うのだから。
道を歩いてたのならともかく、細道のない、草むらの中に入るには、それなりに音が立つはずなのだ。
--でも、私の気のせいかも。
男はスマホらしき機械をしまうと、腕を組み、何か考えるように動かなくなる。
--私が気づかなかっただけかも。
--それより、あの人何してんだろ。
少女は自分の中の違和感をさっさと片付け、むくむくと湧いた好奇心を優先させた。
じっと観察していると、男は腕をおろし、歩き出した。
--あ、どっか行っちゃう。
少女は焦りと失望に眉を下げたが、男がその姿を消した瞬間、
「は?」
と思わず声をあげた。
男は一瞬でいなくなった。
一歩。
二歩。
三歩目で、まるで水面のように波打った空気の中に潜《もぐ》って消えた。
「は?・・・え?」
困惑に固まって、少女はパチパチと瞬いた。
目の前で起きた現象の理解ができなかった。
--え?
--意味分かんない。
少女は次の瞬間、素早く動いた。
草むらに踏みいる事に一瞬躊躇して、ぴょんぴょんぴょんと飛び跳ねるように、走る。
そして男がいたらしき、少し平らになった草むらに停止して、男が見ていたモノを見た。
いや、正確には何も見なかった。
そこには、知ってる林の光景しかなかった。
少女は思いっきり眉根を寄せた。
--意味分かんない。
男がしていた事を思い浮かべる。
確か、何か撫でるような、なぞるような動きをしていた。
少女は右手を前に突き出した。
「・・・・・・」
当然、何もない。
男の消えた瞬間を思い浮かべる。
一歩。
二歩。
三歩目で消えた。
--三歩目で触れる・・・?
少女は足を進めた。
一歩。
二歩。
そしてーーーー三歩目。
「ヒッ!?えっ!?」
右手の指先が触れた。
【何か】に触れた。
水のように、感触はあるのに重さがないような【何か】。
指先は、消失したように無い。
感覚はあるのに、視覚には捉える事ができない矛盾。
「え、え、え。ちょ、ま、待って待って待って」
瞬時に腕を引っ込めて、指先を撫で擦る。
右手はもちろん五本そろっている。
少女は怯えた視線を前方に向けた。
彼女が見ているのは、もう見知った林の風景ではなかった。
得体の知れない不気味な空間だった。
少女はもう一度右手を伸ばした。
指先が【何か】に浸り、視界から消失する。
肘を伸ばし、前腕のほとんどがなくなる。
少女は【何か】の先の空間で右手をぐるぐると回した。
その範囲では、何か触れるものはなかった。
右手を戻して、少女はじっくりと考えた。
突然現れた男。
--それはこの【何か】から出て来たから。
目の前で消えた男。
--それはこの【何か】に入ったから。
【何か】は目には見えないけれど、手を伸ばせば、水のような質感を持ち、触れる事ができる。
それらから少女に分かる事は少なかった。
--これはどっかに来れるし、行ける【入口】。
--・・・たぶん。
少女は結論付けて、一旦思考を切り上げた。
彼女が最も考えるべきは、この【入口】に入るか、入らないかだけだった。
そして、それは思考とも呼べない、一瞬の決断だった。
「よし。行く」
大きすぎる好奇心に、勝てる訳がなかった。
少女はまず、慎重に右足を【入口】に差し入れた。
水のような感触の後、足は視界から消え、そっとおろすと、しっかりと何かを踏みしめた。
--よし。
--地面はあるっぽい。
そして、右手を入れて、右手半身が埋まっていく。
少女はそこで数秒躊躇い、
「っ!!!」
えいやっ、と頭を突っ込んだ。
「うっ・・・」
眩しい白が瞼を刺した。
薄っすらと目を開けば、初めに映ったのは灰色の地面。
それはコンクリートのよくある道路だった。
視線を上げて、周囲を伺えば、白い塀が続く豪邸らしきものがある。
右は、白い塀と灰色の道路が平行に伸びて、100m程先で四つ路になっている。
左は、白い塀はすぐに途切れ、真正面に家々が並び、T路になっている。
ふと振り返って後ろを見れば、赤レンガ風のタイルでできた壁で、洋館らしきものがあり、四つ路にいたるまで、家々が建っていた。
ーーーー少女は気がついていなかった。
自分が完全に【入口】を潜《くぐ》ってしまった事に。
「・・・え?ここ、どこ?」
呆然と呟く少女は知らない。
もうじき【入口】は閉じてしまう事を。
「え?え?え・・・?」
キョロキョロと首を振る少女は予想する事もできない。
自分がもう帰れない事を。
ーーーー好奇心は、猫をも殺す。
自らの好奇心に抗えなかった少女は、自らの世界に別れを告げた。
意図する事もなく。
自覚すらなく。
「・・・どうすればいいの」
ポツリと落ちた疑問は、誰に届く事なく地面に転がった。
ーーーーこうして、また一人の人間が"裏"へと迷い込んだ。