吐息が、触れる。
ゾクリ、と鳥肌が立った。
「恋人同士みたい」
薄紅色の唇が弧を描く。
私は身体が小さく震えると同時に、頭が沸騰したように熱くなるのを感じた。
私の顔色をうかがいながら、同じ部の人が続けて言葉を紡ぐ。
「そうゆう目で見てるように見えるの。野咲さんが描く花宮さんて。」
あぁ、こうゆう事か。
そこまで言われると、私は苛立ちなどを感じなくなった。
これだけを言いたいが為だけに私に声をかけてきたのか。
そう嘲笑う自分と、内心焦りを隠せない自分がいた。
直感的に感じたあれは間違いではなかった。
この人達は、怖い…。
「ねぇ、」
私の髪に誰かの手が触れる。
嫌だ、触るな、汚い、怖い、
全てが言葉にならずに私はただ俯いて震えるばかり。
机の中のスケッチブックを握りしめたとき、リングが指に食い込んだ。
その手に、骨張った手が触れてきた。
触れてきた手は熱くて、少し濡れていて…微かな塩の匂いが鼻を掠めた。
「湊…?」
「こっち。」
重なりあう手が引かれる。
私のよりもよりもずっと大きな手が、私の手の上からスケッチブックをしっかりと掴んでいた。
足が縺れて転びそうになるのをなんとか堪えて、体勢を立て直す。
そんな様子を、手を引いた彼は見てもいない。
相変わらず歩幅も合わせようとしない。
前を歩く彼は早足で、私は駆け足で進んでいった。
あっという間に教室から連れだされ、廊下を通り階段を上っていく。
辿り着いたのは屋上へ続くドアの前。
上りすぎて行き止まりまで来てしまったのだ。
ここまで来てようやく、彼の手が気不味そうに私の手を離した。
階段に座り込みながら息を整え始める。
私も彼の隣に座り込み、じんわりと湿ってしまった肌を服に風を通して冷やし始めた。
襟から顔へ吹き上げてくる風にも、彼から香っていた匂いがあった。
「ははっ、情けない。」
彼の肩がまだ上下に揺れている。
それを見ていて、何故か笑いがこみ上げてきた。
笑ったことが気に食わないのか、彼の瞳が私を睨みつけてきた。
私はそれすら笑い飛ばす。
手を引かれて歩いたのは久しぶりで、それは以前の私達の当たり前だった。
だからだろうか?
歩いていた時、歩き終わった今でも、私と彼のは昔の関係を取り戻している気がした。
こうしたやり取りができるのも、きっとそのせいだ。
空気が、すごく懐かしく感じる。
「毎日走ってるくせに……体力ないなー、バスケ部っ。」
階段に座り、彼が足を伸ばす。
間に1人入れる距離を開けて私も同じ体勢になった。
一段と少し先にある彼の上履きは、私のより大きい。
繋いでいた手も、幼稚園の頃から知っていた彼のものとは思えなかった。
馴染めない違和感の中に居るはずなのに、この空気は昔と何ら変わらないのだから不思議だ。
「それ…」
彼の視線の先には、私に抱えられたスケッチブックがあった。
何かを言いかけて閉じた口は開きにくいようで、視線だけが変わらずこちらへ向いていた。
彼なりに気を使ってくれているのだろう。
何より、震えていた手が彼の優しさを私に伝えてきてくれた。
笑顔を作るつもりが、目頭に少し溜まった涙のせいで泣き笑いになってしまった。
「もう平気みたい。素敵なモデルも見つかったし、今は毎日絵を描いてる。」
四隅は少し丸くなり、縁の白は灰色に変わってしまっている。
それでもこれは私の絵の原点であり、離すことが出来ないほど思いれ深いものなのだ。
暫く眺めてから気づいたのか、彼も笑った。
「8年間も後生大事に使ってたのかよ。」
何枚も何枚も間に紙を挟まれて分厚くなったスケッチブックに彼の手が触れる。
その時の彼の瞳だけは昔の彼と何も変わらない、優しく穏やかなものだった。
8年前、絵描きに夢中になった私に彼が買ってくれたのがこれだった。
誕生日でもないのにプレゼントを貰えて、しかもそれがずっと欲しかったスケッチブック。
当時の私はあまりの嬉しさに泣いて喜んだ。
それから毎日彼を描くようになって、特別な感情を抱くのにそう時間はかからなかった。
話さなくなったのは彼なりの私への気遣いだと知っていた。
事件が起きたのは丁度お互いを異性として意識し始めた時期。
あの時振り払った彼の手に触れても大丈夫になったことに安堵した。
「お前さ、」
懐かしい思い出に浸っていた時、湊がなにか言いかけた。
言い切る前に遮ったのは、
「湊?…と‥春…」
階段を駆け上がってきた冬の声だった。

