また、だ。
本の中でしか知らない感情そのものだ。
ゾクリとする。
好奇心をくすぐられているのだ。
「冬?…なんか、今日は楽しそうだね」
「そう?」
「ずっとニヤニヤしてる」
口元を触ると、確かに口角が上がっていた。
自分の表情が豊かになっているのは、感情の変化に影響されたからだろう。
…にこやかだと相手も穏やかな気持ちになるのだろうか。
気まずそうにしていた春は、放課後になれば自然といつも通りに戻っていた。
いや、それは多少不自然だったのかもしれない。
ただいつも通りの時間を辿ろうと必死になっていたのは私だけではない気がした。
花壇の花が咲いたと話すと、春は嬉しそうに笑って私の手を撫ながら
「それなら、花壇の所で描きたいな」
と言った。
朝、ふと気づいて花の前に足を止めたのだ。
花は好きではないけれど、あの教室から同じ景色を見ながら描かれるよりかはいいと思い賛成した。
あの日と同じ顔が、同じ視線が、何度も繰り返されるのだ。
それに苛立ち、描かれる自分まで汚したくはない。
少しでも、気が紛れたらいいと思った。
美術室から画材を持ち出した時、窓ガラスの向こうに細い線が通っていった。
それは針のように煌めいて鋭く地面へ落ちていく。
雨だ、と思った。
それは口に出さなかったので、春は玄関に行ってからそのことに気づいた。
「やめておく?」
尋ねる春に、私は首を振った。
「行こう」
傘立てに置かれていた透明な傘を2本手に取り、1本は春に手渡して先に花壇へ行った。
小雨というには雨粒が大きかったが、降ってくる量は少ない。
土の匂いに導かれて、足は迷うことなく花壇に向かった。
脇に座り込んでみると、ムワリと全身に土の香りがする生温い空気を浴びた。
花の名前は知らない。
知らなくてもいい事だと思い、花の近くに刺してある板には目を向けないでいた。
ボツ、ボツ、と雨が降ってくる音が耳元で聞こえてくる。
少し離れたところから注がれる視線に、私は黙って答えていた。
花は落ちてくる雫をいとも簡単に弾いてみせる。
花弁に乗ったままになっている雫に触れると、強く気高く咲いているように見えた花の欠片が水滴と共に指に付いた。
音楽会を黙って聞いているだけでは退屈になって始めてみた手遊び。
手グセの悪さはすぐに出てしまって、気づいたら手元の花には花弁が1枚も付いていなかった。
足の痺れが急にきて、座り込んだ体勢に耐えられなくなった私は全身をコンクリートに投げ出した。
傘は横へ転がって、上から全身を無数の針に刺されていく。
心地良く感じるのが何故なのかわからなかったが、淀んだ空の色と伸ばした手の色を眺めながら摘んだ花弁の色を目に浮かべる。
美しい時間がそこにはあった。
ポツリポツリと落ちてくる雫を眺めていると、胸の奥から滲み出るように何かが這い上がってきた。
胸に生まれるのはいつも純粋な欲求だけ。
肉欲に似た、もっと野性的な本能に似た、何か。
それに従って、口を動かした。
「春の隣にいる男、名前なに?」

