弾・丸・翔・子

 ブルースは弟の叫ぶ声にも振り向くことはなかった。封筒を咥えたまま、老体の最後の力を振り絞って駆け続けた。
 一方訳の解らない達也は、とにかく次郎に駆け寄る。次郎が苦しみで大きく見開いた眼の瞳孔が収縮しているのがわかった。大量の涎、嘔吐、失禁。そして、痙攣。達也は直感した。ソマンだ。一刻の猶予もない。達也は救急車と警察、そして自分の病院に、至急PAMを搬送するように連絡した。この機転が後に次郎の命を救うことになる。
 連絡した各所の人と資材を待つ間、次郎はタオルを口に巻いて、次郎に付き添っていた。見ると書類封筒を持っていた次郎の指先が、炎症を起こしている。皮膚からの吸収か…。実際にスプーン一杯のソマンが庭にまかれていたのなら、タオルごときで達也の死を防ぐことは出来ない。しかし、ソマンが封筒に仕込まれること知ったブルースは、垂れ流れる前に封筒を咥えて飛び出していったのだ。達也はブルースの奇行の意味を悟った。ブルースは人間の弟を救うために、兄として毅然とした行動を取ったのだ。
 警察と救急車と病院からの搬送車が同時に到着した。まず血中のソマンを中和させなければならない。達也は、何よりも先にPAMを次郎に注射した。そして救急隊員に細かい指示をすると、次郎を上田総合病院へと搬送させた。警察の事情聴取を受けながらも、達也はブルースの安否が心配で仕方がなかった。
 翌々日、達也は洗浄されたブルースの遺体と対面することになる。ブルースは力の限り走って、達也とよく遊んだ空地へ出ると、そこで力尽きたのだ。人通りがないその空地でブルースの遺体は放置され、警察の捜索でようやく発見された。その頃には、ソマンの殺傷力も消えていた。ブルースの硬くなった遺体を抱きながら達也は人目をはばからず泣いた。愛犬とは言え少し大げさだと言う人も居たが、ふたりのことは誰もわからない。ブルースは達也にとってペットではない。欠け替えのない兄弟であったのだ。

 黒い男はいら立っていた。彼が長い間実験をして準備していた試みが、失敗したからだ。時間が経つと自然にビニールが破れてソマンが合成されて流れ出る。何と考えの浅い計画だったのだろうか。結局、バイク便のライダーの命も奪えず、犬一匹殺しただけだ。ターゲットに何のダメージを与えられなかった。