弾・丸・翔・子

 言葉は発しなくとも、その意味が伝わったようだ。相手が女性だと気付かない達也は、こんな華奢な人がこんな重いバイクを立てることが出来るのかと訝しく思ったが、とにかく自分の位置を譲った。
 翔子は、かるくハンドルとフレームに手を添えると、ハンドルを少し起こし接地する前輪のタイヤをロックする。そして半円を描くように身体を動かすと、彼女の体重に誘われてわずかにバイクが動いた。作りあげたその小さな動きを逃さずに、ロックされたタイヤをコテの支点にして、見事バイクを立ちあげたのだ。達也は、まるで神の奇跡を見たかのように手を合わせて立ちすくんでいる。
「ありがとうございます。」
 翔子はあらためて達也のバイクを見た。事故を起こしたライダーに意地悪されたバイクは、達也だったのだ。
 達也は、メットを付けるとバイクにまたがり、セルボタンを押す。エンジンはうんともすんとも言わない。慌てて何度もボタンを押す。セルが動く気配がまったく無かった。
「ええっ、どうやって帰ったらいいんだ…。」
 頭を抱える達也に、翔子は近づくと、右のグリップにあるキルスイッチをONにした。そして、セルボタンを押してやると、今度はセルも回って見事にエンジンが掛った。
「ああ、知らない間にキルスイッチがOFFになっていたんですね…。バイクのビギナーだってバレバレですね、へへへ…。」
 それがたとえ自分に意地悪をしたライダーであろうと、人命がかかれば自分のバイクが傷つくことも厭わず、駆けつけてきた坊ちゃん先生。そして冷静な判断のもとに、救命のための迅速な処置をおこなう。その時の彼は、坊ちゃんとは言ってはいけない、何か別な存在であるかのように感じた。ヨロヨロしながらも走りだした達也の後ろ姿を、今度は翔子がいつまでも見送っていた。

 玄関先に置かれている黒のステーションワゴンのせいなのだろうか、小奇麗ではあるものの、枯れた静かさの中にたたずむ一軒家は、なぜかどす黒い空気に包まれているように見えた。その家は借家なのだが、生あるものが暮らす気配をまったく感じさせない。その家の大家ですら、開錠することを躊躇しそうな門を、あえてくぐって中に入ってみると、その室内もまた漆黒の空気が充満していた。