凪の海

「今日で4日目にもなるのに、今までどこへ行きたい、何を食べたいなんてわがまま言わなかった人が、珍しいですね。」
 笑顔で皮肉るミチエに、泰滋が頭を書きながら応じる。
「京都は盆地で、海がないでしょう。時々広い海が見たくなるんです。」
「そうですか…。」
「それに、海に来なければわからなかったこともあるし。」
「例えば?」
「例えば…風です。」
「風?」
「ええ、京都の風は、樹々を揺らしてその音を発するのですが、風自体に音があるなんて、海に来なければ気づきませんよ。」
「そーなんですか…。」
「それに、風の表情。」
「表情?」
「ええ、盆地の風は無表情ですけど、浜辺の風は時に安らぎ、時に怒り、時に悲しむ。実に様々な表情を見せますよね。」
「でもそれは、風の表情ではなくて、風を受ける人の気持ちが風に写っているだけじゃないんですか?」
「うっ、女子校生の割には結構深いこと言いますね。」
 ミチエはコロコロと笑った。
「要するに、いままで風に表情が感じられなかったのは、盆地のせいじゃなくて自分の感受性が乏しかったからだと?」
「そこまでは言いませんが…泰滋さんは、怒ったりしないんですか?」
「そりゃあ、怒ることもありますが…。」
「そんな時はどんな顔になるんですか?」
「えーっと…。」
 しばらく顔の筋肉を動かしていた泰滋だったが、諦めたようにため息をついた。
「わかりません。京都人は感情を顔に出す訓練を受けてないんで。」
「そんなことはないでしょう。泰滋さんの笑顔は素敵ですよ。」
「あ、ありがとうございます。」
 屈託のないミチエの言葉に、泰滋が頭をかきながら赤面する。
「でも、実はその笑顔がくせもので、色々な感情に襲われながらも、京都人はその笑顔の下にそれをひた隠すんです。」
「あら、怖いことを…。」
「ええ、それでよく言われることなんですが、京都人の本心は寝顔に現れるんですって。」
「ならば泰滋さんは安心ですね。泰滋さんの寝顔は、その笑顔よりも何倍も可愛くて素敵ですから…。」
 ミチエは泰滋に見つめられて、自分言った言葉の意味に気づき、赤面しながらうつむいてしまった。泰滋も視線を水平線に戻し、しばらく黙っていた。
「今夜、親戚のうちに戻ります。母親に言い付かった用がありまして…。母の実家…山梨県の塩山なんですが…行かなければならないのです。」
「そうですか…。」