凪の海

 老人の言葉に汀怜奈の体が凍りついた。スペインでロドリーゴ氏から出た言葉が、突然この老人から聞こえて、汀怜奈は心臓が飛び出しそうになるほど驚いた。
「あの…おじいさま。」
「ああ、疲れた。悪いが寝かせてもらうよ。」
 しかし老人は、汀怜奈の反応にもお構いなしに目を閉じてしまった。しばらく間、驚愕の眼差しで老人を見つめていた汀怜奈だったが、老人の口元から寝息が聞こえてくると、諦めて居間に戻らざるを得なかった。
「あれ、どこに行ってたんですか?」
 居間のダイニングテーブルに、すき焼きの具材を並べていた佑樹が、汀怜奈の姿を認めて問いかける。
「奥の和室に…。呼ぶ声がしたから…。」
「ああ、じいちゃんですか。なんだろう。」
 離れに行こうとする佑樹を汀怜奈は呼び止めた。
「喉が渇いていらしたようで、お水をとって差し上げました。今は満足されて寝てらっしゃいます。」
「そうですか…。すみません。病人の世話までさせてしまって…。」
 済まなそうに佑樹は言ったが、汀怜奈は何か考え事をしているようでその言葉も耳に入っていないようだった。
 やがて、騒々しく佑樹の父親がカセットボンベを脇に抱えて戻ってきた。
「買ってきたぞ。さあ、すき焼き始めようぜ。」
 父親が、満面の笑顔で汀怜奈と佑樹に着席を促す。
「まず、脂を鍋に敷いて…。」
 父親が熱くなった鍋に脂を押し付けると、ジュッという音とともに香ばしい匂いが部屋に充満した。
「かぁ、さすが高級和牛。脂からしてモノが違うわな。」
 佑樹も父親もよだれを抑えながら、今まさに肉を入れようかと箸で挟むが、ひょっと汀怜奈を見ると、彼女は深刻な顔をしてブツブツ言いながら、野菜を指でハジいている。
「おい、佑樹。先輩…大丈夫か?」
 父親の囁きに、佑樹も首をかしげながらしばらく眺めていた。すると突然、汀怜奈が顔を上げた。
「佑樹さん。」
「はい?」
「ギターをお教えする話ですけど…。」
「えっ?」
「早速明日から始めましょう。」
「なんですか、この急展開は?」
 橋本ギターの正体を見切った汀怜奈ではあったが、今度は離れに寝ているあの老人の正体を暴かなければならない。不本意ではあったが、佑樹の家に通う理由をなんとしても作らなければならなかったのだ。
 驚く佑樹に構わず、汀怜奈はまだ肉も入っていない鍋に、手づかみで一心不乱に野菜を投げ込み始めた。