凪の海

 これはチャンスかもしれない。汀怜奈は、父親に礼を言って家に上がり込んだ。勝手知ったる他人の家。階段を上がって佑樹の部屋に入る。今朝は気づかなかったが、部屋に入ってみると独特な香りがする。悪臭ではないが、汀怜奈が感じたことの無い香りだ。高校生ながら、これが男の香りと言うものなのだろうか。埃っぽい室内に、様々なものが散在している。母親が片付けたりしないのだろうか。そう言えば母親の姿が見えない。
 散らかっているモノから、佑樹の人柄が見えて来る。野球道具。格闘技の雑誌。ビールの空き缶。こいつ家でも飲んでるのか。親は何とも言わないのだろうか。でもタバコ臭くないから、さすがにタバコは吸っていないようだ。いくら男の子の部屋とは言え、付き合っている彼女が居ればそれを感じさせるモノがひとつくらいはあるものだが、そんなものは一切見当たらない。可哀想に彼女も居ないのか。
 そして、汀怜奈は見つけた。本棚に立て掛けてある橋本ギターだ。彼女は勇んで駆け寄り、手を触れようとした瞬間、突然部屋のドアが開いた。手を慌てて引っ込める。入ってきたのは父親だった。彼は手にした缶コーヒーを汀怜奈に手渡しながら、にこやかに言う。
「いま佑樹に電話しました。すぐ戻ってくるそうです。」
 余計なことを…、そう思う心とは裏腹な笑顔を作り、汀怜奈は丁寧に礼を言ってコーヒーを受け取った。
 父親が出ていくと、あらためて橋本ギターと対峙する。外観を眺めると、特段目を惹くものは見当たらない。ホールの中を覗くと、確かにオレンジのラベルには、『マルイ楽器製造 HASHIMOTO GUITAR』とある。自然と汀怜奈の手が震えてきた。いよいよギターを握ろうとその震える手を伸ばした瞬間、今度はドタドタと階段を上がる音とともに、佑樹が部屋に飛び込んできた。
「先輩。来てくれたんですか。感激だな。朝は突然出ていっちゃったから…。」
「あぁ、いや、その…。」
 もう少しだったのに…。汀怜奈は、伸ばした手を後ろに隠し、言い淀む。
「実は、高校野球の友達と一緒だったんですが、ぜひとも先輩の話しを聞きたいって、カラオケボックスで待ってるんですよ。一緒に行きましょうよ。」
「えっ、えー!」
 汀怜奈は、佑樹に腕を取られて無理やり表へ連れ出される。いざとなったらさすが高校球児の力だ。なかなか抵抗することができない