凪の海

 自分は何をこんなに動転しているのか…。昨日自分に起きたことを朝から辿ってみる。久留米のホテルをチェックアウト。福岡空港から羽田空港へ。帰りの電車で橋本ギターとの偶然の出会い。痛快なハイキック。助けた男の子にお礼を言われて…。そう、確かお名前は佑樹とかいっていたっけ。K—1の話し。そしてカフェバーへ行って気がついたら、佑樹さんの部屋で、目が覚めた。そうよ、ここですわ。
 着衣のままとは言え、男と抱き合って寝たなんて、自分の一生を振り返っても前代未聞だ。でも、ちょっとお待ちください。佑樹さんは今でも自分を男だと思っている。私さえ黙っていれば、村瀬汀怜奈は男と寝たというスキャンダラスなことにはならない。少し気が楽になった。
 しかし、思い起こしてみると、電車の中でハイキックなんて笑える話だ。それに自分の話しに目を輝かせて聞いていた佑樹さんは、少し可愛かったかもしれない。年下でコロコロしていて、子犬のようだった。ギターを通じて、常に年上と接していた汀怜奈にとっては、ギターと関係ない分野で気楽に話せた年下との会話は、とても新鮮だった。だから、あんなに飲んでしまったのだろう。
 そんなことより、重要なことは橋本ギターとの出会いだ。探し求めていたギターが、よりによってずぶの素人の高校生の手にあるとは…。なんとか、あのギターを手にして、演奏してみたいものだ。その為には…。
 汀怜奈は鏡の前で、短く切った自分の髪を梳きながら、しばらく男でいなければならない必要性を感じていた。女として、佑樹の前に現れたら大変なスキャンダルになる。このまま男で通して、汀怜奈だと誰にも知られることなく、なんとかあのギターを手に入れるのだ。
 汀怜奈は、自分の乳房を両掌で覆ってみた。小ぶりだが形のよい柔らかな乳房。なのに、なんで佑樹さんは自分が女であることに気づかないのだろう。酔って動けぬ汀怜奈を負ぶって家に戻る時に、背中に当たったろうに。抱き合って寝て、自分のしなやかな身体に触れただろうに。それでも『スリーパー・ホールで寝るなんて、本当に格闘技好きなんですね』とは…。逆に自分に女としての何かが欠落しているのだろうか。