凪の海

 これなら助かるかもしれない。そう思ってさらにきつくしがみつくと、汀怜奈の周りの風景が一転する。なぜか激流に流されていた自分が、小さな花が可憐に咲く野原に、流木と共に横たわっている。助かったのか…。汀怜奈の全身の力が抜けた。野花の心地よい香りと大地の柔らかさに包まれ、穏やかなな気分に浸っていると、一対の蝶々が舞い降りてきた。蝶々たちは、流木の小枝の先に留まる。見ると、小枝の先で羽根を休めているはずの蝶々たちが上下にゆっくりと揺れている。なんで…。不思議に思って腕の中にある流木を改めて確認した。あろうことか、その流木は息をしていたのだ。
 汀怜奈はここで目が覚めた。腕の中を見ると自分の胸に佑樹が顔を埋めて寝ている。自分の膝の間にパジャマ姿の佑樹の身体がある。自分の服はそのままだったが、佑樹を抱き枕がわりにして寝ている自分を発見して動転した。
「キャーッ。」
 汀怜奈の叫び声で佑樹が目を覚ました。
「ああ、先輩。目が覚めました。」
「なんでわたくしがここに?」
「ゆうべ、ヘベレケに酔ってカフェバーで寝ちゃったでしょう。憶えてないんですか?」
「えーっ?」
「財布も免許もなくて、先輩の家がどこかわからないから、自分の家に連れてきちゃいました。」
「でも、なんで佑樹さんがわたくしの布団の中に居らっしゃるの?」
「やだな…ベッドを提供して自分は床に寝てたのに、先輩ったら寝相悪くて、床に落ちてきて…。しかし、スリーパーホールドしながら寝るなんて、さすが先輩、相当な格闘技好きなんですね。」
「キャーッ。」
「あっ、先輩。どこへ…。」
 布団から飛び出して再度叫び声を上げた汀怜奈は、佑樹の問いにも答えず階段を駆け降りた。
「ふぁれ?佑樹の先輩。どうふぃました。」
 階段の下では、薄くなった頭にタオルを巻き、泡だらけの歯ブラシを咥えた佑樹の父が、不思議そうな顔で汀怜奈を待ちうけていた。
「キャーッ。」
 見知らぬ、しかもトランクスパンツにTシャツ姿のむさ苦しい姿の男と遭遇した汀怜奈は、三度目の叫び声を上げ、自分の靴を手に一目散に外へ飛び出していった。