凪の海

 佑樹は、初めて会ったのにもかかわらず、山手線で出会ったバンナの腕を取って歩きだした。バンナを女性だとわかっていれば、佑樹はこんな大胆なことできっこないのだが、この人物を、男の先輩と勘違いしているからこそ気安くそんなことができたのだろう。
 実際、いかに野球漬けで女を知らない佑樹と言えども、普段なら華奢で端麗な体型のこの人物を女性だと疑うところだが、あのキックを見て、しかも生でK—1グランプリを観に行ったと聞いてしまったら、もう女だとは思えない。まこと先入観とは恐ろしい。
 一方、バンナはなぜそんな厚かましい彼を拒否しなかったのか。理由は彼が持つギター以外の何者でもない。

 賢明な読者はすでにお気づきかと思うが、佑樹がバンナと言っている人物は、汀怜奈である。汀怜奈は、福岡からの帰り、羽田空港から浜松町に出て、山手線で渋谷へ向かう途中、このギターを抱えた若者に出会った。
 佑樹を見た最初は、汀怜奈は怒っていた。ギターをビニール袋に包んで持ち歩くとは…。透明ビールから見えるギターは、ガットギターであるのにもかかわらず、ピックガードが貼ってある。ホールの形状とピックガードのエッジがあっていないので、後から張り付けたのだろう。ご丁寧に、ギターの尻にストラップピンまで打ってある。
 ガットギターをフォークギターに変形させ、立ちながら弦をピックで掻き鳴らして弾くだとぉ。これはガットギターへの冒涜だ。この若者のギターに対する無神経な感性が我慢ならなかった。
 ギターを目で追っていくうちに、若者がギターを持ちあげた角度でサウンドホール内に貼ってあるラベルを垣間見ることができた。汀怜奈は愕然とした。そのオレンジのラベルに『マルイ楽器製造 HASHIMOTO GUITAR 1956年製造』と書いてあったのだ。
 それからというもの、汀怜奈はギターと佑樹から目が離せなくなってしまった。なぜあのギターをこんなド素人が持ち歩いてるのか?。そしてサングラス越しに探っているうちに、あのチンピラ騒動に参入することになったのは前述の通りだ。
 やがて汀怜奈はこの若者が、なぜか自分を男だと思い込んでいることに気づきはじめていた。通常なら即座に若者の誤解を打ち消すシチュエーションだが、汀怜奈も途中から、ギターと若者との謎を解くためにはこのままが良いと判断したようで、特に訂正もせずカフェの席についた。