凪の海

「うーん…ここで生まれたばってん、聞いたことなかたいなぁ。」
「50年も前の話なのですが…。」
「それならわかるわけないとです。まだ私が生まれる前やから。」
「そうですか…。」
 肩を落とす汀怜奈。少し可哀想になったのか、主婦が言葉を繋いだ。
「ちょっと待ってね。」
 主婦が家の奥に引っ込むと、しばらくして100歳に近いような白髪のお祖母ちゃんの手を引いて出てきた。
「うちのおばあちゃんよ。知っているから案内するって。」
 白髪のおばあちゃんはゆっくり歩みを進めると今度は汀怜奈の手を取って、外へ導いていった。
 おばあちゃんが汀怜奈を導いていったのは、住宅街の裏にある小さな空き地だった。
「ここにギター工房があったのでごさいますか?」
 汀怜奈の問いに、おばちゃんはゆっくりとうなずく。雑草が生い茂り、荒れ放題に荒れたその空地には、工房を想わせる跡などひとかけらもない。途方に暮れている汀怜奈の手を引いて、おばあちゃんは空地の奥へと彼女を導く。
 雑草を掻きわけて進むと、おばあちゃんが立ち止まり、地面を指差す。そこには木造のアーチのような造作物が横たわっていた。当然のごとく木は朽ちていて、今にもぼろぼろに崩れそうだ。その形から2本の柱を冠木(かぶき)でつなぎ屋根をのせた、木戸の門であることが想像できる。当時はこの工房の立派な木戸門として、入口の役目を果たしていたのだろう。
 汀怜奈は、その造作物に近づいて細部を調べた。柱にあたる部分に『マルイ楽器製造』という文字が見える。確かにこの場所が工房だったのだ。さらに観察を進めると、汀怜奈は木戸門の冠木に当たる部分に、全体とは異質な木材で出来た板が付いていることに気づいた。その板だけなぜか当時の形を残している。
 汀怜奈はその板に触れてみた。
「この板だけ、ハカランダですわ…。」
 ハカランダ(Jacaranda)別名ブラジリアンローズウッド。ブラジルのバイア州周辺で生産される木材だ。心材と辺材の境界がはっきりしており、心材は褐色から赤褐色。木目に沿って黒い縞を有し、鮮やかな木質感が特徴である。非常に重硬な材で粘りがあって加工は難しい。乾燥は困難だか十分乾燥すると狂わない。バラの花のような芳香があるのでローズウッドの名が付き、虫害や腐朽性に優れる。