凪の海

「あなたの口から聞こえる言葉は信じません。あなたの胸から伝わってくる声を私は信じます。」
 そう言うと、佑樹の顎を引き寄せてその唇にキスをした。その甘美でやわらかな汀怜奈の唇を感じた瞬間に、佑樹はもはや廃人も同然、抵抗する気力も力も失っていた。
「いい?一度しか言いませんからよく聞いてくださいね。天才ギタリスタ村瀬汀怜奈は世界のものだけど、ただの村瀬汀怜奈は、あなただけのものになりたいと願っているのよ。」
「そんないい話し、一度しか言ってくれないんですか…」
「当たり前ですわ…さあ、納得したらこの服に着替えてくださる。」
 汀怜奈は、大きなバッグから白いタキシードを取り出すと佑樹に渡した。
「なんです?」
「いいから、早く。」
 キス一発でもう汀怜奈のいいなりになっている佑樹は、首をかしげながらも、もちろんその服に着替えた。一旦工房の部屋に入っていった汀怜奈だが、出てきた彼女の姿を見て佑樹は度肝を抜かれた。
「なんでウェディングドレス?」
「いいましたわよね。私は、今日中にマドリードに戻って帰国しなきゃならないって。」
「でも…。」
「帰ったら公演会、公演会で時間がないんです。下手したら、そのままおばあちゃんになってしまいます。」
 汀怜奈は、佑樹の手を持ってアルバイシンの丘を下っていった。目指すは、サンタ・マリア・デ・ラ・アルハンブラ教会。
「ちょっと先輩。信者でもないのにそんなとこで式を挙げられないでしょ。」
「教会コンサート1回でバータ交渉しました。」
「あれ、勝手にコンサートできない契約だって、先輩言ってたでしょう。」
「そんなの嘘に決まってるじゃありませんか。でも…式を挙げる前に警告しておきますけど…式を挙げてから私を先輩って呼んだら、本当にバンナのハイキックをお見舞いしますからね。」
 いいなり佑樹はそのまま教会に連れ込まれ、幸せそうな顔をして神父の前で、汀怜奈へ生涯の愛を誓った。ふたりの結婚を告げる鐘の音が、地震からの復興をスタートさせる合図かのごとくグラナダの街に鳴り渡った。